戸田城聖先生の巻頭言集 1『宗教革命』(昭和二十四年七月十日)

 

 現代の宗教は、知識人に軽蔑されており、ことに、わが国において、知識人は既成宗教も新興宗教も、すべて迷信であるかのように考えている。

 

 しかしながら、真実の仏教哲学を裏付けとした宗教観よりするならば、むしろ、現代日本の知識層こそ、最も釈尊に弾劾され、軽蔑された階級であると考えられる。

 

 はたして、仏教は、現代の科学的知識と相容れないものであり、近代人の生活に仏教は必要のないものであるか、否か。それには、まず、仏教そのものを知らなければならない。

 

 ゆえに吾人は、その問題の根源を究明し、今こそ、宗教界の覚醒と、一般世間の信仰に対する誤った観念を打破することが必要であると強調するものである。

 

 現代の宗教界には、いわゆる迷信が横行している。加持祈祷とか、お祈りによって、病気が治る、貧乏が金持ちになるというご利益信心を看板にしておるが、それらの信仰の対象は、なんら仏教哲学によって、裏付けられるわけのものではない。また単なる修養とか、社交とか、心安めを目的とする信仰も、決して真の宗教とは言いがたいのである。

 

 仏教界においても、僧侶は、ただ食うための坊主商売であり、葬式と墓場の管理人に過ぎない。その教義や説法も、大衆の日常生活とは何の関係もなく、これこそ大衆から遊離した無用の長物と言わざるをえない。もし、宗教が、本来、生活と無関係の存在であるとするならば、釈迦の出現も、キリストの出現も無意味である。はたして、仏教には生活と関係のないことが説かれており、生活への実践が説かれていないか、どうか。それは、今さら、ここで論ずるまでもないことであろう。

 

 すべてが釈尊の意図と相反した原因は、まず従来の僧侶が形式に流れて実質を失い、大衆の生活を考えずして、自己の保身にこれ努めた結果にほかならない。さらに信者は、自分の属する宗派が何であるかを、極めようとせず、生活と関係のない寺院に、多額の布施や寄付を徴収されても、これを疑おうとせず、ただ先祖伝来を口実にして、そのお寺を守ってきた。

 

 そもそも宗教とは『生活の法則』であり、生活そのものの中に存在しなければならない。それがためには、宗教の在り方を考える時に、まず自分の立場とか過去の因習を捨てて、仏教徒は、まず釈尊の立場に立ち返って、その在り方を判断し、日蓮門下と称する数百万の僧俗は、宗祖大聖人の立場にかえって判断しなければならないはずである。しかるに聖人の滅後、宗派は宗派を生じ、異見は異見を生み、分裂に分裂を重ねてきた上に、各宗各派は堅く自説に執するのあまり、是非曲直の糾明もせず、ついには消極的、退嬰的になって、次第に宗教は生活とかけ離れてきた。これに乗じて、さらに新興宗教の氾濫をもたらしたのである。

 

 今、仮に、青年や知識人に対して、南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏とどう違うかと質問したら、それに答えられる者が、幾人あるだろうか。満足に答えられる者は、皆無と言ってよい。それほどまでに、仏教は社会人に見離され、社会人は仏教を日常生活に必要としなくなったのであり、更に、すべての者が、その理由を哲学的、学問的に究明することを忘れているのである。

 

 しかしながら、我々は仏教の真髄 ― 法華経の指向する方向において、汲めども尽きない甚深の哲学と、極まりなき実践の力を発見した。今や、道義国家、文化国家の建設の指標が高く打ち立てられている時に、かかる仏教の真髄が、あまねく世に出でて、もって、国家、民族の打ち立てた指標を、光輝あらしめなければならないと信ずるものである。

 

 今、ここに、宗教雑誌『大白蓮華』を発刊して、学者も僧侶も檀信徒も、きわめて自由に、その所信を開陳し、邪を捨てて正を取り、小善を捨てて大善を取り、もって生活の準則としての正しい信仰と、新しい生活を建設せんがために、正法、正義を究明せんとするものである。 (昭和二十四年七月十日)