御前原城(別称:中原城)


創設年代・・・正和四年(1315)
創設者・・・・塩谷頼安
形態・・・・・平城
遺構・・・・・本丸・土塁・空堀


二重土塁
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北出入口・城碑
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内側土塁
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空堀
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主郭内から北出入口
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東土塁・南土塁
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西出入口・土塁
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西出入口・空堀
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土塁
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虎口
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空堀
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内部土塁
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東土塁
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東側空堀
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仏堂・庭園跡
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主郭内北・東土塁
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略史
御前原城は塩谷頼安の築城というが、
伝承では平安時代末期に
堀江頼純が築いたといわれる。
源義家の孫である頼純は
摂津堀江荘にあったが、
父義親が罪人として罰せられた為、
頼純は下野塩谷郡に流罪となった。
この時に頼純が塩谷氏を名乗り、
御前原城を築城したという。
頼純の孫惟頼は弟惟広と源頼朝の挙兵に加わり
功績を挙げ勢力を拡大した。
五代朝義は嗣子なく、
宇都宮頼綱の弟朝業が養子となり家督を継ぎ、
宇都宮氏の勢力拡大に伴い、
塩谷氏もその勢力下に組み込まれた。
その後朝業が川崎城を築いて移った為、
御前原城は川崎城の支城として一族が居城した。
教綱の時、宇都宮城で謀殺され塩谷氏は断絶したが、
宇都宮正綱の四男孝綱が塩谷氏を継いで再興、
次の由綱が豊臣秀吉の小田原征討で、
背いて奥州に逃れた為塩谷氏は没落、
川崎城とともに御前原城も廃城となった。




ポイント
御前原城は
中世土豪の館を勢力伸張に伴い
拡張整備した城郭です。
縄張りは主郭・二の郭・三の郭からなり、
東西400m、南北700mと広大でした。
現存する方形の主郭は北と西に虎口を設けて、
土橋が架かっていました。
土塁は二重で守られ、
内側の土塁は幅10m、高さ3.5m、
濠の深さは6m、幅10mで
その外を土塁で固めています。
更に主郭の中にも土塁を築いて内部を区画しているようです




印象
工業団地造成により、
二の郭・三の郭が消滅してしまいましたが、
シャープの工場群の中に主郭が残っていました。
残念ですが、良く残してくれたと感謝なのか.。o○
方形の主郭が二重土塁が濠を挟んで
どっしりと構えていました。
中に庭園の跡らしく、
石地蔵を祀る仏堂の周りに
盛土と凹地がありました。
全部残っていたら、
すごい城郭遺構だったろうにと、
土塁の上から思いにふけっていました(笑)。



訪問日
平成23年11月