瓜連城
うれんじょう


創設年代・・・建武三年(1336)
創設者・・・・楠木正家
形態・・・・・平山城
遺構・・・・・本丸


常福寺楼門・本丸
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案内
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遠望
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開門
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鐘楼・本堂主郭
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本堂裏の土塁
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本堂裏の土塁
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本堂裏の土塁
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虎口・櫓台
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幼稚園脇の土塁
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本堂脇の土塁・空堀
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本堂脇の土塁・空堀・稲荷社が見える
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本堂脇の土塁・空堀
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本堂脇の土塁・空堀
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本堂主郭裏手の土塁・腰郭
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略史  
楠木正成の代官の楠木正家は
北条時頼の子桜田時厳、
その子瓜連貞国より建武政府が没収していた瓜連の地に築城し、
北畠顕家不在の間の陸奥経営代行者広橋経泰や
筑波の小田治久など南朝方を結集した。
そして陸奥への連絡を妨害する北朝方の佐竹氏討伐を図った。
当初は兵力の半分を足利尊氏に従軍させていた佐竹氏側が苦戦したが、
次第に伊賀盛光など近国の北朝方の軍が参集し、
籠城していた東金砂・武生城から
瓜連城攻撃の為出撃した。
しかし頑強な南朝方の抵抗にあい、
佐竹勢は苦戦を強いられ再度山間部へ籠城した。
そして南朝方の那珂通辰が
西金砂城攻撃に出た隙を狙い、
武生城から佐竹義篤が出撃、
瓜連城に総攻撃を加え、落城せしめた。
この落城により南朝方の勢力は分散、
那珂氏も退路を断たれ一族自刃した。
その後北畠親房が
常陸国に下向して南朝方の再結集を図ったが、
室町幕府は高師冬を派遣し対抗させた。
師冬は下総北部で戦闘を繰り返した後、
瓜連城に入城し軍事力を増強、
南朝方が常陸で有利に戦闘を進めていた為出撃し、
南朝方を討伐しつつ小田城を包囲した。
以後瓜連城の名は出てこない。



ポイント
久慈川沿いの低地を利用した常陸と
陸奥白河郡との連絡路から那珂川流域に至る要地に構築。
水田より比高20mの台地上にあって、
北東の急崖の上に二段の土塁が構築されて、
途中に腰曲輪をおき、又深い堀も備えています。
東西南北700mあり大規模で土塁と堀が囲んでいました。



印象
立派な寺でした。
この常福寺が本丸で、
いまは一部が残っていますが
周囲は土塁と堀が囲んでいました。
裏の林の中に土塁、堀があります。
特に保育園の裏の大きく、
深い堀、高い土塁が目を見張るようです。


訪問日
平成21年6月