魔法、というと、小説や映画やゲームやアニメなど、今もあちこちで見聞きする、不思議な力を想起させる言葉です。



実際の魔法は、五感を磨きぬいた先にある、努力と根気の果てにできるようになる「普通、それはわからない」的な感性とセットになっている、現実でも、形にすることが可能なものでした。

漁師が、天気や潮の流れを読むように。
お菓子職人が、はかりがなくても重さがミリグラム単位でわかるように。

魔法の入り口は、磨かれた五感です。

それを理解するための道具がなくたって、はっきりしっかり、わかってしまう。
そういうもの。

だから、今ほど様々な計器が発達していない時代は、誰もが、その感覚に近いものを持ち得ていました。

五感のうちで、どの感覚が優れているかによって受け取り方も様々で、しかも人によって全く違ってイメージされる言葉にしかできないので、それらは共有されることも、まとめられて学問になることもなく、文明の利器が広がるとともに、急激に消えて行ってしまったものです。

長い歴史の中で、あまりにあたりまえに存在していたからこそ、文字として残されることもなく消えてしまいました。

もっと簡単に言えば、昔は、五感の先にあって本人とっては自然とはっきりと理解している感覚、それを統合して心に浮かぶイメージが、魔法になり得ていた、という感じです。

片思いの相手の心をどうしても知りたい。
傷つけてしまった友人の心を知りたい。
そういうとき、今のように、それをすぐに知るための道具も、手段もなかった。
相手に会おうにも、距離も時間も手間も運も、必要でした。
だから、人々は、現代人に比べて、ずーっとたくさんの時間を、イメージすることで過ごしてきました。

五感が研ぎ澄まされていて、それがイメージする能力の豊かさにつながると、精霊が「視え」ます。
実際脳裏にイメージとして、はっきり視えるんです。

そうして視えたり感じたりできるのは、何も精霊だけではありません。
亡くなった方だとか、神様だとかも、同じところで繋がります。
だから、昔の人たちは、その強いイメージ能力で、様々な禍から身を守るすべを、日常に普通に使っていたのだと思います。

例えば日本のお正月。
鏡餅、お節料理、初夢、お年玉、いろいろなしきたりがあります。
今でも最も顕著なのは、31日の大祓という神々が一年の罪穢れを祓う儀式があって、その翌日の空気は、生まれたての赤ちゃんのような無垢な空気になるということ。
否定的なエネルギーである罪穢れがない状態だと、夢見も、正しく清らかになります。
だから、初夢が正夢になる、あるいは正しい存在からのメッセージになるというのは、すごくよくわかる話です。

 



神道の儀式を、魔法と混同するわけにはいきませんが、不思議な世界は、今も昔も、背中合わせであるのは、変わらないという一例です。


私の言うところの魔法は、五感とイメージ能力を使って精霊たちと交流することで、なんらかの加護を得ること。
交流からはじまる、精霊魔法です。



もちろん、繋がることができるのは精霊だけではないんですが、いつも魔法の入り口にいるのは、身近に存在し、この世界の調和を守る、精霊たちなので。
精霊たちと一緒に、この地球の調和を守るための、魔法の入り口に立ってみませんか?

たくさんの愛に満ちた不思議が、あなたのもとに、訪れることを願って。