先ほど、ネット検索して知ったのですが、最近の学説によると石田三成等の西軍と徳川家康等の東軍が衝突したのは、岐阜県の関ケ原ではなく山中であり、西軍は通説のように鶴翼の陣ではなく魚鱗の陣で山中に固まって布陣していたそうです。

それで、開戦と同時に小早川・脇坂・赤座・小川・朽木が大谷吉継勢に襲い掛かり、西軍は破滅。午前8時から開戦して午後0時には終戦したようです。つまり、家康は小早川に裏切りの催促の鉄砲を撃ちかけていなかったと。

(この小説は通説の通りのお話でしたが)

 

 

僕は、小学生の頃から関ケ原の戦いが好きで、大河ドラマで関ケ原の戦いを観たり、関ケ原の戦いについての小説を読んだりしていますが、どうもしっくり来ていませんでした。

それは以下の5点でした。

 

①なぜ西軍は7万もの大軍を擁しながら分散して布陣してパワー減したのか。

②小早川は日和見をしていたところ、午後0時ごろ家康に鉄砲を撃ちかけられて西軍を裏切る決心をしたなんて薄情すぎるのではと。

③島津は石田三成と確執があって関ケ原の戦い当日に不戦を貫いたのか。

④西軍は日和見の武将がほとんどで、関ケ原の戦い当日は石田・小西・宇喜多勢ぐらいしか戦っていなかったのに、総勢7万の東軍に対して総勢3万5千の軍勢で午後0時まで善戦できたのか。

⑤石田三成はなぜ大垣城から出てわざわざ関ケ原へ移動したのか。そもそも、なぜ前夜に赤坂の東軍に夜襲を掛けなかったのか。


それに対する答えは、

①西軍は関ケ原ではなく山中に布陣して、4万弱の軍勢で魚鱗の陣でいた。

②小早川は家康の鉄砲による催促を待つまでもなく、当日開戦と同時に西軍を裏切って大谷勢に襲い掛かった。つまり、小早川はとっくの昔に東軍だった。

③島津勢は石田勢の後詰として布陣していて、戦う前に戦いの大勢が決してしまい、あとは伊勢街道方面へ敗走するしかなかった。つまり、島津は日和見していない。

④西軍は開始1時間ほどで東軍に敗北した。

⑤石田三成率いる西軍はまとまりがまるでなく、大垣城で東軍を釘付けにすることは不可能で、裏切っていることが濃厚な毛利勢・小早川勢をあてにして、山中・松尾山と南宮山で東軍を挟み撃ちにする作戦に出るしかなかった。

又、夜襲は南宮山に布陣していた吉川広家が東軍に内通している疑いが濃厚なため、戦いの最中に吉川勢に横腹を突かれる恐れがあったため出来なかった。

 

 

ということのようです。つまり、通説のような接戦ではなく、西軍の完敗だったと。

 

 

 

 

もっとも、これらはあくまで、関ケ原の戦いについての最新の学説に過ぎないので本当のところは分かりませんが、理にかなっているように思えます。