「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将と姫の墓めぐり、駒姫の墓の紹介です。
人物名 | 墓のある施設 | 住所 |
---|---|---|
駒姫 | 専称寺 | 山形県山形市緑町3丁目7−67 |
発見難易度★★☆☆☆
![くるまr](https://emoji.ameba.jp/img/user/na/namida-egao/88449.gif)
豊臣秀次に見初められ、泣く泣く京に上った駒姫。しかし秀次との謁見前に処刑される
駒姫は最上義光(もがみよしあき)の次女です。
義光は、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の北条征伐の後、秀吉に拝謁し、本領安堵を得、豊臣家の傘下に入ります。
義光の娘・駒姫は、秀吉の甥・秀次(ひでつぐ)に見初められ、側室に差し出すよう命を受けます。
義光は駒姫がまだ幼いことを理由に要求を拒みますが、 秀次の再三の要求に屈し、ついに側室として差し出す事となりました。
駒姫は京に登り秀次との謁見を待ちましたが、その間に秀次は謀反の咎にて高野山に蟄居の上、切腹。
続いて秀次の一族も処罰するよう沙汰が下ります。
その沙汰は、無慈悲にも嫁ぐ前の駒姫も含まれました。
義光は秀吉に駒姫の助命を願いますが、それは叶わず、駒姫はわずか15歳での若さで京三条河原にて処刑されてしまいました。
辞世の句は、
「罪をきる弥陀の剣(つるぎ)にかかる身のなにか五つのさわりあるべき」
駒姫を祀る専称寺
義光は愛娘・駒姫の死を悼み、専称寺を天童から山形へと移し、駒姫の菩提寺としました。
寺はその後、1598(慶長3)年に現地に移転されました。
左甚五郎作の力士像が四隅を飾る本堂
本堂は元禄16年(1703年)の建立で、本堂四隅を飾る力士像は左甚五郎作といわれています。
また境内には「雪降り銀杏」と呼ばれる市指定天然記念物の大イチョウがそびえます。
天下一の名工が造った梵鐘
梵鐘は、慶長11年(1606年)に製造されました。
作者は西村道仁。
豊臣秀吉から天下一の称号を与えられた名工です。
鐘楼もその当時に建てられたものです。
梵鐘、鐘楼ともに県の文化財に指定されています。
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