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たまにはパストラルケア病院研修での話でも。

臨床パストラルケアの病院研修で、常々患者さんへのケア実習で感じさせられたのは「無力の先にあるパワー」でした。

「無力」であることと「何も出来ない」ことととは違います。 
無力を受け入れ、無になったが故に、とてつもない「有」が生み出されます。


無力である事を知る事は「私にこの患者さんに何かが出来る」という奢った気持ちを無くして謙虚さを知る事でもありました。そして、その先にものすごいパワーが発生することも経験しました。

何も出来ないというわけではない。 それがとても『本質的な部分』で起きている
しかもそれは一人一人生まれ持ったものであって、誰もが同じというわけではない『純粋無垢なオリジナルな自分』


またそのようにして関わり合うのが『パストラルケア(スピリチュアルケア)』なのだと実感しました。  


死を目前として、死にたくないともがいている患者さん。

たとえば来世があると信じている人、まったく信じていない人とでは対応は異なる。 唯物論的だったり、そうでなかったり。
そしてどちらが間違っているとか、正しいとかはありません。


『患者さんの捉えている現実』がその方に取って正しいのであって、それをこちらの価値観や信条、信仰でねじ曲げてはいけない。
まして、自分が死の直前にある状態を経験した事が無いし、その方の人生経験をこちらは経験したことがないのだから、こちらの価値観を押し付けるなんてもってのほかなわけです。

その中で、患者さん自身が何かに気付いて、その方の本質的なしかるべき方向へと変わっていく。 
ケアは触媒のようなものだったりします。

パストラルケアとはスピリチュアルケアと言いつつも、かなり実存的な関わり合い方をします。
しかし、何の会話もせずにいて、そこでふと変化変容が起きる世界でもあるのです。 

患者さんに寄り添って、傾聴して、結果として気付きを促したりする事もあるけれど・・・私は『言葉ではないもの』が大きく影響することも体験しました。

対話の出来る患者さんだからもちろん、対話はする。 (ときには言葉を発する事も出来ない方に寄り添う事もある)
しかしその内容はとりたててケア的なことでもなく、昔話であったり、最近の政治の事だったりという世間話。
あとは無言のままの時間が過ぎていく。
無言のまま寄り添うというのは最初はけっこうな覚悟がいるものだったけど、場数踏むうちにいろいろわかってきました。


翌日になって看護師さんから、「いったい何を話されたんですか? ずいぶん様子が変わったので驚きました」・・・・・と言われた、とりたてて何をしたわけでもないし、深い話もしていない。ただ時を共に過ごさせていただいただけ。30分くらい。
 
いや、私は何か悪い事でも起きたのではないかとそちらを心配したが、そうではなく、逆にとてもよいことだったのです。

「気持ちが前向きになって、家族に会ってみようという気になった」と心境の変化が見られたそう。

それでお会いしにいくと、前日寡黙に何も話さなかった患者さんが、突然、堰を切ったように誰にも話していない(本人談)事を聞いて欲しいと話される方もいる。 表情も随分と変わりました。

 こちらからは何も返答できず、傾聴に徹する内容で、誰にも言えない事です・・・。 
でもそれをお話しされる事でその患者さんは生返ったように(病気が治ったとかではないですが)活き活きとされたわけです。

研修中だとこのように翌日もケアさせていただくような機会は滅多に無く、一期一会が基本ですが、時にこのような経験をすることがあったのです。


もちろん私はエネルギーワーク、ヒーリングやセラピーなんてことを患者さんに一切していない。 
自分がこういう仕事をしている事すら話しません。カウンセリングでもありません。
話す必要も無いし、やる必要も無い。 

「私」の事を話すためにここに来たのではありません。
ただの無力なパストラルケア・ワーカーとして患者さんの前に座っているのです。 
求められない尋ねられない限り「私」の話はしません。 そして話せたとしてもすぐに患者さん中心に戻します。 

技術的な事はともかくとして、そういうものがまったく歯の立たない出来事というのも起きるんです。

パストラルケアで起き得る話としては、ただ側にいるだけで伝わる「エネルギー的」なものが影響して変容に至るというもの。

キリスト教では『聖霊』の働き・・・に近いような気もする。・・・・・が、そんな大それた事でもないと思うけれど。

度々そういう事が起きた。   その度に「言葉ではない」と痛感したのでした。   
先生にそれを言ったら、こうかえってきました。   

「病床にある方・・・とくに重い方であればあるほど『純粋な状態』になっているので、とても敏感なのです。それは五感だけではないと思います。
あなたが言う、エネルギー的なという表現が私(先生=神父)の思っている事と同じような意味だとして考えています。
そしてそれは、Beingです」

エネルギーはごまかしがきかない。 あなたとしてのあり方の根本から出るものはあなた自身で意識的にごまかしたりが出来ない。のです

「あなたが、あなたとして純粋な・・・つまり本物の自分ですね。それが患者さんに影響したのです。本物のあなたとしてのBeingがです」

これは、言葉とか知覚している意識の上で起きる現象でもないということ。つまり起こそうと思って起こるものではないんですね
とても深い。  



もちろん、相性が合わない患者さんも当然いるわけです。 それはどんなに経験を積んでも起きます。 
三次元での人と人との関わり合いですし、しかもそれがとても無垢な部分で起きるので、準備が整っている人・いない人、あるいは単純に合わないということです。

また、単なる心理療法的な寄り添いで終わってしまうか、あるいは不思議と出会わないという事もありえるでしょう。

パストラルケアは知識や技術を使って関わり合う心理療法とは違う。 
ただし、これらの知識や技術は当然学んでいくし、ツールとして必要なことなのでちゃんと学びます。

究極のパストラルケアというものがどんな感じなのかは体験してはいないですが、私なりの経験に基づいてなにか分かったと事の1つは、

自分が他者を前にして「無力である」を受け入れた時、気負いも何も無くなって「こうしよう」「ああしよう」というのも無くなって、色々な事を手放して、そのケアの時限定にはなるだろうが『無』な状態になっていられるのではなからろうか? という事。 すると本質的な力がちゃんと出てくる。

この本質的な力というのは、生まれ持った純粋な自分自身の既に持っていたものとともに、人生の経験・体験の中で培われた多くの事柄なんですよね。

当たって砕けろ・・・・・に近いものもあるかもしれない。  砕けてはいけないのだけれど(笑)

患者さんの前で丸裸になるしかない。なるようにしかならないと覚悟を決めた時、ほんとうに素晴らしいケアに結びついたのは確か。

自分が死というものを目前にしたときでさえ、そのようにして「なるようにしかならなないでしょ」と無力さを受け入れて、本質的な、純粋な、核たる自分にすべてを委ねる事が出来るかどうか・・・・・それは分からないけれど。
もしそれが完全に出来得るのであれば、恐怖はなくなるんだろうなぁなんてことも考える今日この頃なのでした。