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引き続き日本カトリック神学院で

哲学・神学のセミナーです。

今日は講義の面白さに定評があり、

宗教の枠を超えて陰陽道や修験道、仏教とか
色んな概念に精通しているその名も阿部仲麻呂神父!!


今日のお題は「創造と救い」。

ユダヤ教の出発点と原因や

ユダヤ教、キリスト教、正教、

イスラムの救いの定義の違いなんかを勉強しました。

ここからは私の考えで、

阿部先生が言ったわけではありません。

面白いなと思ったのは、

ユダヤ教の出発点(侵略とバビロニア捕囚、

奴隷となった苦しい状況)と、

そうなった原因を定義する為に

イスラエル民族のあり方に


もともと自分達の祖先が過ちをおかした

(原罪) はそもそもどこから来たのか

それの折り合いをつけるために

過去の歴史として作った

「創世記」があり、

未来には救われるという

明るい希望のため

今をどう生きるか。

その方法が「回心と信仰」である。

という観点がある。

人が抱える、問題(今)とそれを好転させていくための気づきや学び(過去や内面を振り返る)と、それによる意識変換で起きる新しい未来(救い)…という癒しに至るまでの流れによく似てるように思えて。

気づきや学びとか意識変換のきっかけって大なり小なり人が関与してるとすれば、そこには愛の働き(交わり)を見ることができる。

聖書ではそのお手本的存在、

愛の働きを行う人、

苦しむ人に寄り添い共にいて

自分の足で歩くように促す存在としてイエスがいる。

聖書は壮大で、難しくてわかりにくいけど、

シンプルに一人の人間に状況を置き換えた時見えてくる。

誰でも、イエスのようになれるし、

キリスト。

それが私達人間の本質なんじゃないかなってね。

今のカトリックでは「苦しんでいる人に寄り添って愛ある行いをする人」の事を『キリスト者』として定義している。
そこにはキリスト教の宗教的信仰は

あまり関係ないみたい。

キリスト、すなわち救い主。

それ自体に宗教的意図を持たせないのは

現代的な考え方だし

もっともだと思った。


いや、教会の台所事情を考えたら、

信徒増やしてなんぼっていうのはあるかもしれないけど、
神学という台所事情とあまり関係のない学者世界においては、良い行いをする人をキリスト者に定義していると考える。

思想や哲学的観点としてそれは正しいと思う。

 

 

 

 

 

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