パストラルケアやスピリチュアルケアで、相手に寄り添うというのは、自分(自我)からどれだけ離れているかが重要です。
そのためには自分に精通していないと、うっかり無意識に相手の価値観を傷つけてしまう事に繋がります。

これは、ケアのみならず普通のコミュニケーションにも言える事。

自分にまず傾聴し、自分に精通していなければ、私達は自分の価値観や思い込みで相手を裁いたり、的外れな事返したりして、無意識的に相手に嫌な思いをさせてしまいます。

健康ではつらつと五体満足で生きている者同士ならば、「あぁ価値観が違うんだね」ですませられます。ところが、病の床に臥せってらっしゃる方、まして余命幾許もない患者様相手では、そんなことを思わせてしまうのはそれだけでエネルギーの消耗、はては無駄な時間を過ごさせてしまう事になってしまうので注意が必要です。


精神世界には物事を何事もポジティヴに考えるというのが主としてあります。

目に見える世界は虚像であり、意識のあり方の問題。
霊こそが本質であり、そこには苦しみなどは無い。
人生は楽しむためにある。
頑張りすぎる必要は無い。
ワクワクする事を選択しよう。
etc...

しかしながら、癌の痛みに耐え、意識を最後まで保って家族の声を聴いていたいからとモルヒネを拒否して痛みに耐えながら亡くなっていかれる患者様を見たりすると、とても複雑な気持ちになります。

人生は楽しむためにある・・・頑張りすぎる必要は無い・・・ワクワクする事を選択しよう・・・言うのは簡単ですが、こんな現場でそんな言葉は出てきません。

モルヒネを打たず、痛みに耐える道を選んだのはその患者様の選択であって、そうまでして家族の声を最後まで意識のある状態で聞いていたいという望みですから、どんなに苦しんでも、その選択にご自分が満足してらっしゃるのであれば、苦しみに歪んだ顔で亡くなっても、人生を全うされた美しい顔としてしかるべきでしょう。

その一方で、残された側はいろいろ考えてしまう訳です。この選択が正しかったのかどうか。

こういう時こそ、信念が試されているんですね。そのように信じられるのか。

自分が何を信じているのか。

信じている事が本物なのかどうか。

自分の経験や信念として刻み込まれたものから発せられるなら本物で、綺麗ごとではありません。その人なりの人生の中から出て来た本物の言葉です。

ところが、なんら人生の経験に刻み込まれずに、ただ聞こえがいいからと受け売りのように、言っているようではただの綺麗ごと。 本物の言葉ではありません。

臨床パストラルケア(スピリチュアルケア)を学ぶ過程で、無責任な事や綺麗ごとを言わなくなりました。

というか、昔は「綺麗ごと」だって事に気付かずに言っていた事に気付いたといったほうがいいでしょうか。

無責任な事は言わない、綺麗ごとは言わない・・・端で見るとそれは「優しい人ではなく見える」でしょう。 
でも私には気休めや、薄っぺたい同情論とか、うかつな励ましとかできません。

厳しい事を言っているわけでもありませんが、気休めを言うって私には出来ません。
正直でいたいし、誠実でいたい。

ふと思ったので。