**○風月抄「3月22日」ゲーテ

 1832年の今日「3月22日」に、『詩聖』と称されるドイツの「ゲーテ」が亡くなっています。
 「ゲーテ」は、古典主義文学の代表的作家で、主著に「若きヴェテルの悩み」「ファースト」などがあり、学生時代に紫蘭も手当たり次第に乱読したものです。。

 

        

・・思案など、一切やめにして、まっしぐらに世間へ飛び出しましょう。

瞑想なんかする奴は、枯れた草原の上を悪魔に取りつかれて、ぐるぐる引き回されている動物みたいなものです。その周りには美しい緑の牧場がある、、というのに。。(*ファースト)

**「3月22日」人力車の発明

 

         (人力車の元祖)

 

     

 

         

          【昔の博多駅前】

 

 人間が人間を乗せて走る「人力車じんりきしゃ」は、こんにちでは京都や長崎など、ごく一部の観光地でしか見られませんが、昔ははどこの駅前でもずらりとこの「人力車」が並んでいたものです。


さて、この人力車という乗り物を発明したのは、いったい誰なんでしょうか・・

 


               (明治初めの人力車)

 その発明者は、福岡の人で「和泉要助」というのが定説になっています。
 彼は、明治維新後、料亭の手伝いをしていましたが、西洋人が馬車に乗っているのを見て、馬の代わりに人が引く車は出来ないものか、と考えました。その、最初の試作車が明治2年に出来上がりましたが、いざ走らせてみると、安定を欠いてひっくり返ったりして、思うように動きません。


 しかし、一年あまり、実験を繰り返してついに完成して、太政官にその使用願を出し、東京府にも出願しました。そして1870年(*明治3年)の今日「3月22日」に営業許可が出て、和泉の人力車が、初めて東京市内を走りました。
 その営業許可に当たっては、東京府は、

①通行人に迷惑をかけないこと
②料金は出来るだけ安くすること
③高貴な方や巡邏兵隊などに車が行き当たった時は、下車するか、脇道によける事
④火事があった場合にはその近くを走らないこと、、

 の4条件を申し渡しました。

 


                  (明治初め、箱根登山の人力車)


 そして、この人力車は、日本で普及したばかりでなく、驚くべき速さで中国や東南アジアにも輸出され、その生産のピッチを上げるために大蔵省から2000円の操業補助を受けて、会社組織が出来上がりました。自慢話が好きだった明治の偉人「福沢諭吉」は、「人力車のヒントになったのは、自分がアメリカから持ち帰った「乳母車」であると自慢したそうです。。

       

                    中国の洋車(ヤンチョ)