〇馬術の名人「間垣平九郎」1月30日
1634年(*寛永11年)の今日「1月30日」に、徳川第三代将軍の「徳川家光」が、芝の増上寺に参詣したとき、その通路に当たる愛宕山で「間垣平九郎」が馬術を披露し、馬で愛宕山の石段を駆け上っています。
この日は、あいにくの雪で、石段はうっすらと白く凍り付いていました。その中を、「間垣平九郎」は愛馬をいたわり、励ましつつその石段をかけ登って、梅の花を一枝手折って、それを襟のい指して静かに降りてきました。
泰平の世が永く続いた寛永期には、宮本武蔵の「剣術」が「剣道」に変わり、平九郎の「曲馬」も「馬術」に変わっていったように、戦国時代から続いた軍事的戦闘の技術は、もはや実用的な意味を失い始めていたのです。考えてみれば、間垣の石段登りも、実戦にはほとんど関係ない事だったのですね。
(ベルリンオリンピックの西大尉の跳躍)
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ところで、西洋ではこの日に、イギリスの「チャールズ一世」が、ギロチンによって処刑されています。
「1月30日」ギロチンの起源
敵や犯罪人を処刑するのに、首をちょん切るというのは、昔は世界共通の方法でした。そのため西洋では、ギロチンという機械を、J・ギョタンというフランスの医師が発明したので、これを「ギョターヌ」というようになりました。ギロチンというのはその英語読みなのです。
このような死刑の方法は、もともと南フランスやイタリアでは古くから同じような処刑の器械が使われていました。フランス革命の時には、「ルイ14世」や王妃の「マリー・アントワネット」も、哀れにもギロチンによって首を刎ねられています。
「ギロチン」は二本の太い柱とそれをつなぐ厚い板で作られ、上部に三角系の刃が取り付けられています。そして地上には、十字型の台がおかれて、処刑囚はそこに首を差しのべます。そして処刑執行人が手に持っている綱についている「刃」が落ちて首を刎ねるようになっていました。
(ギロチン・本物)
このギロチンによる処刑は、まさにフランスの「恐怖時代」を象徴するもののように思えますが、それより以前の処刑方法はもっと残忍で、木こりが木を切る時に使うときと同じように、大きな斧で首を切り落としていたのです。
中世から近世にかけて、ヨーロッパの王様たちは、次々に革命裁判にかけられていますが、イギリスのチャールズ一世は、市民議会が出した「権利請願」を無視したために1649年の今日「1月30日」に、「公敵」として死刑を執行されています。
この日、処刑台にはカンタベリー主教が立ち会い、王は自分の「ガーター勲章」を主教に手渡して、潔く首を差し出し、死刑執行人が斧でその首を切り落としています。その時間は、1月30日の午後2時4分と記録されています。