「4月24日」 最初の戦車戦
 

 現代の地上戦は、兵士同士の白兵戦ではなく、まず、両軍の先頭に立つ戦車どうしの戦いで始まります。

 戦時中、紫蘭が軍隊に居たときにも、よく「対戦車攻撃」という訓練がありました。歩兵が窪地に潜んでいて、敵の戦車が走ってくると、飛び出して、戦車のキャタピラの下に、竹竿の先に括り付けた亀の子状の「破甲爆雷」を挿入するのです。もとろん、敵の機銃が雨あられのように飛んでくるし、爆雷の破裂と共に我が身も傷つくので、まさに決死的ないわば「特攻攻撃」でした。

 

       

        (少年戦車兵募集)   (撃破されたアメリカ、中戦車)

                 
               (インパール作戦の英軍)


 その「戦車」といえば、昭和になって天皇制の日本の最大の仮想敵国は、共産主義の「ソ連・今のロシア」だったので、ソ満国境には日本最強の戦車部隊が配備されていました。作家の司馬遼太郎さんは、学徒出陣で加古川の連隊から、この満州の戦車部隊に入っていました。ある日、ふとヤスリで戦車の装甲板をこすってみたたところ、案外にすぐ削れたので、「これじゃ、日本も、あかんなぁ」と思ったそうです。

 

  
   (満州の司馬少隊長)     (97式戦車)


 ところで、古代中国の「馬車」のような戦車ではなく、実用的な近代の「戦車」が実際の戦場に現れたのは、第一次世界大戦の時でした。 

 

     

             (中国古代の戦車)

 

イギリス側は、このとき、この戦車を「水タンク」と称して戦場に送ったので、「戦車」のことを「タンク」というようになったのです。この戦車は、まず1916年にフランス戦線にイギリス製の戦車49台が送り込まれましたが、このうち17台は故障で動かず、発進できたのは、そのうちの32台で、しかも満足に戦闘行動ができたのは、そのうちのわずか9台だけでした。

     

            (イギリスのマーク1戦車)


 しかし、フランスもイギリスのこの新兵器に刺激を受けて「シュナイダー戦車」を開発し、英仏合同の大機動部隊が1917年のカンフレー会戦に参加しています。この時の両軍の戦車の台数は、合計476台で、このときの戦闘で、ドイツ軍は壊滅状態に追い込まれ、8000人もが捕虜になっています。

 

     

           (ドイツのA7V戦車)


 この新兵器に対抗すべく1917年になってドイツ側も、「A7V」という戦車を造り始めました。この戦車は、イギリスの戦車の装甲板14ミリに対して、ドイツ軍のは30ミリの厚さの装甲版でおおわれていました。しかも57ミリ砲を装備し、その照準装置もイギリスのそれよりも優れていました。

    

      
            (第二次大戦時のドイツ軍戦車)


 その両軍の戦車の最初の遭遇戦が行われたのが、1918年の今日「4月24日」のことで、ウイシー・ブルトーヌ付近でした。

 この時の両軍の戦車は、ともに3台で、イギリス側は満足に行動できたのはわずか一台で、1対3という不利な戦闘でしたが、イギリス側の戦車を指揮するミッチェル少尉は、うまくドイツ戦車の側面にまわり込んで、砲撃を開始しました。その戦車の台数と性能から言えば、圧倒的にドイツ側が有利でしたが、イギリス軍の熟練した機動戦技術によって、この史上初めての戦車戦は、イギリス側の勝利に終わったのでした。

     

      

           (ガダルカナルで放置された日本軍戦車)

 

                        しらん