〇「ピーサレフ」
ロシアの革命的民主主義者で、文芸評論家の「ピーサレフ」が、1841年の今日「10月14日」に生まれています。彼は投獄されながらも、唯物論の立場から、芸術論を探求しました。。
(ピーサレフ)
・・血は、決して人類の一般の事業を前に推し進めるために流されるのではない。
反対に、人間の一般の事業は、流血にもかかわらず、前進するのであって、決して流血の結果として、前進するのではない。。(*生活のための闘い)
〇「風月抄」 鉄道唱歌
今日は「鉄道の日」ですね、昔は「鉄道記念日」と言っていました。明治5年(1872年)の今日、10月14日に新橋駅から横浜駅まで、日本で初めての鉄道が開通したのです。
(明治初めの機関車)
(肥薩線)
その後、1900年(明治33年)ごろに、「鉄道唱歌」という歌が大流行しました。
♪ 1,汽笛一声新橋を
はや我が汽車は離れたり・・
愛宕の山に入りのこる
月を旅路の友として
2, 右は高輪泉岳寺
四十七士の墓どころ
雪は消えても消えのこる
名は千載の後までも
この頃になるともう、東海道線だけでなく、山陽、北陸、東北線なども開通していて、歌の歌詞も全部で117番まであって、全部歌うと2時間もかかるそうです。もちろん、九州の長崎線もあり、我がふるさと、佐賀のことも歌われています。。
♪ふたゝびかへる鳥栖の驛
線路を西に乘のりかへて
ゆけば間まもなく佐賀の町
城にはのこる玉のあと
つかれてあびる武雄の湯
みやげにするは有田燒
めぐる車輪の早岐より
右にわかるゝ佐世保道
鎭西一の軍港と
その名しられて大村の
湾をしめたる佐世保には
わが鎭守府をおかれたり
昔は、鉄道といえば電車ではなく、石炭を炊いて走る蒸気機関車ばかり、出発する時は、汽笛一声、ポーッーという音を残して水蒸気の白い煙をまき散らしながら、シュッシュッぽっぽと動き出し、次第に速度をあげていくのがなんとも言えない気分でした。
(驀進する2連機関車)
戦後すぐは、汽車の数が少なくどの列車も買い出し客や通勤、通学者で超満員。。
大学に通うのにも、佐賀駅のホームを飛び降りて列車の向こう側から高い乗車口にぶらさがって、博多まで通いました。
何しろ戦後は食糧難で、田舎に着物と引き換えにコメを分けて貰うために、リュックを背負った人たちで貨物列車まで趙満員だったのです。腹が減っては戦はできぬ、みんな必死の思いで買い出しに出かけていました。
(窓から乗り込む人たち)
そのため、大学に着いたらまず顔を洗うのが先決問題でした。何しろ、石炭の屑やススが耳や鼻の穴に入って真っ黒になっているのです。よく福岡に下宿していた友達から、色が黒いなぁ‥と笑われたものです。
(1973年・蒸気機関車とお別れ・・)
しらん