〇風月抄「足の傷」

 中学時代に、漢文で「身体髪膚、これを父母に受く、あえて毀傷せざるは、孝の初めなり」と習いましたが、人間、百年近くも生きていると、体のあちこちに古傷のあとが残っています。 
 紫蘭も、右足のくるぶしは、はしごが倒れて関節を骨折したり、ふくらはぎには飼い犬に噛まれた跡があり、左足の甲には大な切り傷があります。その左足の甲の傷には、特別の思い出が詰まっています。
 
 紫蘭は、予備士官学校時代のある冬の日、演習に出た夜に、一晩で左足が膝まで腫れて発熱したことがあります。 左足の親指の小さな靴ずれから黴菌が入ったのです。病名は「皮下蜂窩織炎」でした。そのころは、軍隊に限らず、一般家庭でも、栄養不足のため、栄養失調による、この「蜂窩織炎」が流行っていたのです。

 そのため、即刻、豊橋の陸軍病院に入院したら、若い中野軍医殿が、左足の甲を麻酔もせずに、はさみでジョキジョキと切り開きました。その痛いこと!痛いこと!
 軍人ですから涙は見せませんが、あの時の痛さは一生忘れられません。松葉杖を突いて、夜間、舎外のトイレに行くときの寒さ、それに、片足でしゃがむのにもとても苦労しました。

 

    

 そんな入院中に、中隊長の賀陽宮邦壽王殿下が見舞いにこられ「紫蘭候補生、その足は切らんでもいいのか?」と尋ねられ、「ハッ、大丈夫であります!」と答えたものの、傷跡からは、真っ赤な血潮がしたたり落ち、看護兵が慌てて膿盤を足の下に置いたりしました。殿下は、その血を見て、慌てて帰って行かれ、後で恩賜の煙草菊のご紋章入りの杯を貰いました。。

 

     

   (賀陽宮中隊長殿下)        (恩賜の煙草)

 当時はまだ抗生物質もなかったので、その後の治療といっても、化膿止めのサルファ剤の飲み薬を、切開した所にハラハラとまき散らしただけ、そのあとは毎日、包帯交換の時にヨーチンを塗るだけでした。衣料不足で取り換える包帯もないので、家に手紙を出して、古着の切れ端を送ってもらいました。

 しかし、なかなかよくならず、軍靴もはけないので、予備士から一時帰郷となり、6月に傷痍軍人の白衣姿で、松葉杖をついて、九州まで帰りました。空襲で焼け野が原になった名古屋には、焼けた名古屋城だけがぽつんと残っていました。その名古屋から乗り込んできた、小学6年の男の子は、空襲で家が焼け、父母も死んだので、親類を頼って広島まで行くとのこと、その後広島は原爆にあったので、あの少年もどうなったことやら、と終戦後も長い間気がかりでした。

      
         (空襲で焼失前の名古屋城)   

 

 そして、家に帰ったら、軍隊と違い、なんでも腹いっぱい食べられるせいか、足のケガも瞬く間によくなり、再召集を待っている間に、8月15日に建物疎開で家の解体が始まる日に戦争が終わりました。
 戦争に負けたことは悔しかったですが、これで、空襲にも合わず、軍隊に帰ることもないかと、いささか、ホッととしたのも事実です。。                       

 

                         しらん