風月抄「浴衣の起源」6月22日
兵庫県の姫路には「姫路文学館」があり、同窓の作家・司馬遼太郎や俳人の赤尾兜子の展示小間ががあります。いつか京都であった同窓会の折に友人と訪れて、ほんとに懐かしかったです。
(友人)
ところで、この姫路市では例年、6月22日から三日間、「浴衣まつり」が開かれますが、コロナ禍の今年はどうでしょうか。
この「姫路ゆかた祭り」は、約260年前に姫路城の守り神である「長壁神社(おさかべじんじゃ)」が始まりだとされるお祭りです。
(姫路の浴衣まつり)
江戸時代、吉宗将軍の時に姫路藩の第3代藩主「榊原政岑・まさみね」が、吉宗が出した倹約令を無視して贅沢三昧、奇抜な服装で江戸城大手門を警備したり、吉原で派手に遊興に耽り、名妓・高尾太夫を1800両で身請けするなど、奢侈を好んだので風流大名とか好色大名と言われていました。
このため政岑は越後に転封となり、その前に政岑は長壁神社を移して夏至の6月22日に遷座祭を行いました。
しかし、そのお祭りが急に始まることが決まって、式服を作る暇もなかったので、庶民でも簡単に着れる「ゆかた」を着て参拝するのを政岑が認めたことから「ゆかた祭り」と呼ばれるようになったそうです。
では、そもそも浴衣の起源は何でしょうか。
室町時代までの日本人は風呂に入るとき裸では入りませんでした。湯帷子(ゆかたびら)と言う麻製の入浴衣を着て入っていたのです。それがハダカになったのは18世紀ごろで、こんにちでも風呂に人いる時は手ぬぐいを持って入りますが、江戸期まではこの手拭いを「身拭い」と言って体をかくすための布と言う機能を持っていました。極小ではありますが、いわば湯帷子の延長ともいえるものでした。
ところがこの湯帷子は手拭いとは別の展開を見せました。入浴中には着ませんが、湯上り後に羽織る衣料が現れたのです。それが「浴衣・ゆかた」だったのです。
江戸期にはもう木綿が登場していて、木綿は吸収性がよく湯上りにはきわめて適切な衣料でした。浴衣は始めのうちは湯帷子の伝統通り白無地に決まっていましたが、のちには様々な模様や柄・がらが染められるようになったのです。特に、幕府の度々の贅沢禁止令によって絹を着てはいけないという事になると、浴衣に大柄な図柄を使ってこの禁令に反抗したり、うっぷんを晴らしたりしたのです。
しかし浴衣はあくまでも浴場用の着物で、街頭に浴衣姿で出るなどはもってのほか・・と言うのが当時の慣例でしたが、それが今のように堂々と夏の街着になったのは明治になってからの事でした。