「7月29日」ゴッホ
1890年の今日「7月29日」に、オランダ生まれの画家「ゴッホ」が、自ら拳銃で頭を撃って死んでいます。彼は28歳から絵を描き始め、激しい個我によって独特の絵の境地を開きました。
(ゴッホの自画像) (死の床のゴッホ) (ゴッホのひまわり)
○ 風月抄 「凱旋門の起源」 7月29日
(凱旋)
凱旋門というと、戦争の結果、その勝利をたたえ、その勝利をもたらした将軍や軍隊が凱旋式を行う記念のために作られた門ですが、この凱旋門は古く、古代ローマの時代から始まっています。
凱旋門では、フランスのナポレオン・ボナパルトがパリに作らせたエトワール凱旋門(1836年)が有名ですが、これも古代ローマの風習にならったものだそです。
ローマ帝国盛んなりし頃、ローマの兵士達はしばしば外征して敵を打ち破ってはローマに凱旋してきました。このように勝って帰ってくるのは良いのですが、血なまぐさい戦闘に従軍した兵士たちには悪霊が付いている、という風に当時の人々は考えました。
そこで、兵士たちを平時の市民として迎え入れるためには、そうした悪霊を落とさねばなりません。日本流で言えば、お払いともいうべきものですね。その浄化手段として、ローマ人は兵士たちに門をくぐらせることにしました。「この門をくぐれば悪霊が落ちる」というわけです。そういう呪術的理由から、凱旋門という建造物が出来たのです。
しかし、単に精神を浄化するだけでは市民も兵士達も気がすみません。とにかく戦闘に勝ったのです。お祓いのための門は同時にその戦勝の記念碑であるのが望ましいのです。そこで凱旋門は次第に進化して大型の石造建造物になって行きました。そういう凱旋門はまずローマで造られ、そこにはさまざまな浮き彫りや彫刻が施されるようになりました。今なお残っている「コンスタンチヌスの凱旋門」などはその古典的な例だといえるでしょう。
この習慣はその後も西洋の歴史のなかで確実に受け継がれてきました。とりわけ派手ごのみのナポレオン・ポナパルトは、自らの栄光の象徴として、しきりに凱旋門を造ることに熱をあげました。パリのルーブル博物館のそばにある「カルーゼルの凱旋門」もその一つです。
ナポレオンは自分の権威をいやが上にも目立たせるために、この凱旋門の上に、ベネチアのサン・マルコ大聖堂正面のテラスに据えつけられていた金塗りのブロンズの馬をパリまで運ばせてこれを取り付けました。
ですが、パリの凱旋門というと、普通に思い出すのは「エトワールの凱旋門」です。これは高さ50m、幅45m奥行き22mで、かなり大規模なビルに匹敵します。彼がこの建設を思い立ったのは1806年ですが、なにしろこれは建造物であると同時に工芸品でもあったので、完成したのは1835年7月29日、実に30年近くの年月を要しました。
この間にナポレオンはジョセフィーヌと離婚してマリー・ルイネーズを皇妃に迎えることにしましたが、ぜひとも花嫁をこの門から迎えたい、と切望しました。やっと土台が出来た程度でしたから、どだい(?)無理な話です。しかし設計者のシャググランはナポレオンの要望に応えて、土台の上に木造でハリボテの門を構築しました。ルイーズ姫はそのハリボテの門をくぐって目出度くパリに入ったのです。
ついでですが、ナポレオンの功績をたたえるべく造られたエトワールの凱旋門が完成したときは、彼はすでにこの世の人ではありませんでした。 その15年前に、ナポレオンはセント・ヘレナ島で死んでいたのです。。
(セント・ヘレナ島のナポレオン)
〇日本の凱旋門
日本の凱旋門は、各種祝賀行事の際に建てられていた緑門(りょくもん)が起源です。緑門とは、門の前面をスギの若葉で飾り付けられた簡素な門のことですが、日清戦争が終わった時に日比谷や三越百貨店の前などに大型の凱旋門が作られたのをきっかけにして、一気に大型化の方向に進みました。
そして、日露戦争が終った時に最高潮を迎え、日本各地にフランスのエトワール凱旋門を意識した大型の門が無数に建設されました。仮設でしたが、浅草の雷門も凱旋門化したそうです。また、京橋に作られた凱旋門は高さが18mもあったそうで、凱旋門ではないですが、1903年に建てられた大阪の初代通天閣はエッフェル塔とエトワール凱旋門を模して建てられたのだそうです。
(明治45年・通天閣誕生) (戦前の大阪・新世界)
日本の凱旋門の始まりが緑門だったので、市街地に作られた凱旋門の多くは一定期間後に取り壊され、雷門の凱旋門も建築1年後には取り壊されています。ですが、地方ではそのまま保存された門もあり、静岡県浜松市や鹿児島県姶良市などに、数基の凱旋門が残っているそうです。
しらん