「7月17日」 コロー

 

  

                 (コロー)          (青い服の女)

 

 フランスの画家「コロー」が1796年の今日「7月17日」にパリーで裕福な織物商人の子として生まれています。
 コローは古典的で写実的な落ち着いた画風で知られ、風景画が有名ですが、人物画にも優れたものがあります。

 

        
                        「モルトフォンテーヌの思い出」

  *風月抄 「7月17日」 ポツダム少尉

 1945年(昭和20年)7月17日から8月2日まで、旧東ドイツのポツダムでアメリカ、イギリス、中国、ソ連の四か国の首脳が集まって、いわゆる「ポツダム会談」が行われました。ポツダムは東ドイツのベルリン郊外にある都市で、湖水も多く「林泉の都」と言われ、サン・スーン宮はじめ多くの離宮や別荘がある風光明媚なところだそうです。

 

                      (左からチャーチル・トルーマン・スターリン)

 ポツダム会談は、ナチス・ドイツ降伏後の第二次世界大戦の戦後処理を決定するための会談で、7月26日には日本政府に対して日本軍の無条件降伏などを求めるポツダム宣言が表明されました。

 その最初の文書の中で日本の「戦後処理」について「第一次世界大戦後、日本の占領下にあったすべての太平洋上の諸島、台湾及び澎湖諸島の返還、朝鮮の独立など」を定めています。さらに第13項では、「日本政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言するよう要求し、もしそうしない場合は日本国は迅速かつ完全なる壊滅あるのみである」と断言しています。 

 当時の鈴木貫太郎内閣は、はじめは「黙殺」の姿勢でしたが、続く原爆投下とソ連の参戦のために、ついにポツダム宣言を受諾せざるを得なくなり、八月十五日に終戦の大詔が渙発され、日本の無条件降伏となったのです。

 私たち見習士官は、この敗戦後に少尉に任官したので、当時「ポツダム少尉」と呼ばれていました。

この進級は見習士官ばかりではなく、陸海軍共にポツダム宣言受諾後に,各軍人の階級を一つ進級させました。敗戦後の軍人の恩給や手当がなるべく多くなるようにとの日本政府の配慮からでした。これをポツダム進級と言い、ポツダム少尉とかポツダム少佐など、当時は「ポツダム」を階級の前に入れた俗称で呼ばれていました。

 

   

  (同期の吉井見習士官・故人)             (広島で原爆に遭った同期の見習士官たち)

 陸軍士官学校や予備士官学校を出ると、見習士官となり、その6か月後に少尉に任官します。

見習士官なると、最下級の将校として、いわば兵隊の指揮官なので、小銃は使わず、軍刀の所持が出来ますが、帯刀は腰のグルメット(吊り鎖)にではなく、軍服の上に巻いた,帯革に吊り下げます。

 学徒出陣によって、見習士官の多くがこのポツダム進級によって、従軍期間に関わらず少尉とされましたが、その中で自虐的に自分のことを「ポツダム少尉」と言っていたのが定着したものだそうです。


 大学、高専の在学Þ中に、学徒出陣者として軍隊に入った者の多くは、戦後「ポツダム少尉」になってから大学に復学し、大学卒業後は要職に就いて、戦後日本の復興に尽力しています。また、現役軍人の大半が公職追放されたのに対して、学徒出陣者は公職追放の対象とならずに戦後に公務員になれたために、上級公務員には多くのポツダム少尉が含まれることになりました。。

 

                                           しらん