「9月3日」
1883年9月3日に、ロシアの小説家、劇作家の「ツルゲーネフ」がパリ郊外で客死しています。 彼は富裕な貴族の家に生れ,1837年ペテルブルグ大学卒業後,ベルリン大学に留学し、人道主義に立って社会問題を取り上げる一方、叙情豊かにロシアの田園を描きました。
(ツルゲーネフ)
農奴制や余計者、女性の自立などの社会問題をすぐれた詩人的感性でとらえ、多くの長編を残しています。明治時代に二葉亭四迷の訳で早くから日本にも紹介されています。紫蘭も学生時代によく読みました。世界文学全集で、最初に読んだのが、このツルーゲーネフの「初恋」でした。
「初恋」「猟人日記」「その前夜」「父と子」など。
〇 「クロムウェルの首の行方」
(クロムウエル護国卿) (映画・クロムウェル)
「オリバー・クロムウエル」は、1600年代のイングランドの政治家で軍人でした。
彼は清教徒革命(イングランド内戦)では鉄騎隊を指揮してエッジヒルの戦いやマーストン・ムーアの戦いで活躍し、ニューモデル軍の副司令官となり、ネイズビーの戦いで国王チャールズ1世をスコットランドに追いやって、議会派を勝利に導いたイギリス・名誉革命の主役とも言うべき人物で、1658年9月3日に59歳の生涯を終えました。
そして、当然のことながら、彼の葬儀は盛大に行われ、遺体は丁重にウエストミンスター寺院に安置されました。
(ウエストミンスター寺院にあるクロムウェルの銅像)
しかし彼の死後まもなく、王政復古となり、政治情勢は逆転して彼は許すべからざる反逆者として、その棺は無残にも暴かれました。そればかりではありません。クロムウェルの遺体はタイバーン刑場で絞首刑の後バラバラに切断され、斬首された首は鉄の棒の先に突き刺されて、ウェストミンスター・ホールの屋根に掲げられて、その後24年間に亘ってさらし物にされてしまったのです。
ところが、1685年大嵐がロンドンを襲い、「クロムウェル」のさらし首は落ちてしまいました。
そして守衛の一人がそれを拾い、自宅の煙突の中に隠し、その秘密を娘にだけ明かして亡くなりました。
そしてどのような経過であったのかは明らかでありませんが、1710年ごろ、この首は売りに出され、1775年には「S・ラッセル」という俳優の手に入っていました。ラッセルはこの首を見世物にして、見物料を取って自分の収入源としていました。
(晒し首の見世物の広告)
ついで1787年、ラッセルはそれを「J・フォックス」という宝石商に売り渡し、フォックスはさらにポンド通りの商人たちのグループに転売しました。この商人たちは、大々的に見世物興行を試みましたが、大して見物客を集めることができませんでした。
1814年、クロムウェルの首は「ウイルキンソン博士」という人物が買い取り、それをいわば家宝として代々伝えることにしました。首は樫の木で作った箱に入れられたうえ、絹布で包まれ、そのままウイルキンソン家に安置されてつづけました。
ところが、1960年になって、ウイルキンソンン家の当主はこの首をクロムウェルの出身校である「シドニー・サセックス大学」に贈ることにしました。同校はこれを受け取り、大学構内に埋葬したのでした。 「クロムウェルの首」は3世紀にわたって転々とし、ここでやっと安住の地を見出すことが出来たというわけです。。
とまれ、数百年経った今でも、類(たぐい)稀な優れた指導者なのか、強大な独裁者なのか、クロムウェルの歴史的評価は分かれているのです。
*昔はさらし首の刑がよく行われました。幕末でも近藤勇、江藤新平などなど。。
しらん