「オリンピックの怪記録」
 

 東京オリンピックも来年に繰り越しになりましたが、新型コロナがこれだけ世界中にまん延してしまっては、果たして開催できるかどうか心配になってきましたね。
 
1936年・ベルリンオリンピック、日本選手団の入場)
 
 オリンピックと言えば、シランが一番思い出に残っているのは、今から84年前の1936年(昭和11年)のベルリンオリンピックです。当時、日本は日独伊三国同盟を結んでおり、ヒトラーのナチス政権下のドイツとは親密な間柄で、国民の間では、ベルリンでのオリンピックには格別の関心がありました。
 
 
(観戦のヒトラー総統)
 
 中でも女子200m平泳ぎで、前畑秀子選手とドイツのゲネンゲル選手との息詰まり熱戦には手に汗を握る思いをしました。当時のNHK、河西アナウンサーが「前畑がんばれ!前畑がんばれ!」と連呼し、「勝った!勝った!前畑勝った! 勝った!」と23回も絶叫した声が今でも耳に残っています。
 
      
                                               (前畑がんばれ! 前畑がんばれ!)
 
 また、オリンピックの花「マラソン」では韓国の孫基禎選手が日本選手として優勝したのにも感激しました。(戦後は、日本ではなく韓国の優勝になっていますが・・)
 
   (一位で競技場に戻ってきた孫基禎選手)
 
(マラソンで優勝した孫基禎選手)
 
 
 そんなオリンピックのマラソンについて、面白い記録が残っています。
 
(古代ローマのオリンピック)
 
  1900年にパリで開かれたオリンピックの各種目の最終決勝戦は、7月14日の土曜日、と言う事になっていましたが、ご存知のようにこの日はフランスの革命記念日です。 
 そこで主催国のフランスはこの日の決勝戦を翌日に持ち越すことにしました。翌日はもちろん日曜日です。すると、今度は「日曜日は安息日である。」と主張するアメリカ選手団の一部が出場を拒否して、オリンピックは大混乱におちいりました。
 
 そればかりではありません。マラソン競技でトップを切っていたアメリカの「A・ニュートン」は悠々とスタジアムの中の決勝点に到着しましたが、驚いたことに、そこにはすでに4人の先客が居たのです。そしてフランス人三人とスエーデン人、一人です。そして「M・ティアト」という人物が一番と、決定されました。
 そこで、ニュートンは誰にも追い越されなかったと主張して、抗議しました。
 
 調べてみると、先着の4人はマラソンの途中で近道を選び、しかも馬車に乗ったらしいのです。ですが、真相はとうとう判らずじまいでした。
そのため審判は当惑して、決定を保留しました。そして「ティアト」はそれから12年後の1912年に、やっと金メダル受賞者として認められました。
 ちなみにこの人物はパリのパン屋さんでした。
 
                                                         しらん