「黄禍論・アメリカの排日運動」   5月26日

 

 最近、欧米を中心に移民の問題がやかましくなっていますが、1900年代後半には、欧米など白人社会の間にいわゆる「黄禍論」が盛んに主張されました。

 もともと、黄禍論日清戦争末期の 1895年春ごろからドイツをはじめ、ヨーロッパで唱えられた黄色人種に対する警戒論で、特に日露戦争で日本が勝利してからは、白人社会に黄色人種に対する恐怖と警戒の念を強めました。アジア民族の移住と労働力が白人社会に災禍をもたらすだろう、というのです。それが1920年代のアメリカの排日運動にもつながっています。

 

 

(日露戦争の諷刺画)

 

 日本からアメリカへの移民は19世紀の終わりごろから活発になり、20世紀の初めにはアメリカにとって無視できない程の人口になってしまいました。
1890年には僅か2000人ほどしか居なかった日本人移民は1910年には13万人にも膨れ上がり、それも主としてカリフォルニア州に集中しました。とりわけ農業についてみると、アメリカの農業人口の6%が日本人と言う集中度を示すようになりました。

 

 もともと日本人は働き者です。それにどんな職業についてもその勤勉ぶりは驚くほどでした。人の嫌がる仕事もするし、何時間でも辛抱して働きます。クリスチャンではないので、安息日の日曜日も休まず働きました。

 「こんな働き蜂がやって来たら遠からずカリフォルニアの労働市場は日本人に占領されてしまうのではないか・・」と言う不安がアメリカ人に生まれてもおかしくない状態でした。

 

 そしてサンフランシスコを中心に1905年ころから激しい排日運動が始まったのです。同年、日露戦争が終って有色人種の東洋人である日本が西洋人に勝利したことから、以前からくすぶっていた「黄禍論」が西洋社会に広がり、同市の労働組合指導者たちは「アジア人排斥協会」を組織し、また、同市の教育委員会は、中国人と日本人の子ども達をアメリアの子供たちと分離して新設の「東洋人学校」に収容しようとしました。

 

    

(黄禍論の諷刺画)

 

 1907年になると日本人へのビザ(査証)の発行も厳しく制限し、1913年には外国人の土地所有が禁止されました。ここでは外国人と言う言葉が使われていますが、実質的には日本人の事を意味し、アメリカでは「黄禍」「日禍」として捉えられるようになりました。

 こうした排日運動はカリフォルニア州からアメリカ全土に広がり、ついに1924年7月1日にはには連邦議会が帰化権のない外国人移民を禁止する、という「ジョンソン法案」を可決してしまいました。いわば排日移民法だったのです。当時の第30代大統領「クーリッジ」はこの法案には反対の立場でしたが、法案が成立してしまっては仕方がありません、同年5月26日に彼はこの法案に署名したのでした。。

 

 

   

                                              

                     (排日移民法に署名するクーリッジ大統領)

 

(排日移民法に反対するデモ隊)

 

                                                   しらん