〇 種痘の始まり

 今は「天然痘」は絶滅したので、種痘は行われていませんが、戦前は誰でも小学校に入学する前に、「植え疱瘡」といって、種痘をせねばならなりませんでした。いわば天然痘のワクチンの予防注射ですね。左腕に4か所メスでチョンチョンとX型に傷をつけられ、それが膿んでかさぶたになって落ちます。そのあとは、大きくなってもいつまでも残っていて、中々消えません。

 

 昔は天然痘(疱瘡)が多く、伊達政宗から明治天皇、夏目漱石など多くの人がこの病気にかかっています。また良くなってもその後遺症で顔に傷痕が残り、いわゆる「アバタづら」になりました。江戸時代の平均寿命は僅か30歳~40歳くらいで、その原因は致死率40%というこの天然痘やコレラのために、10歳くらいまでに死んでしまう子供が多かったからだと、言われています。 天然痘を予防し撲滅する道を開いたのはイギリスの医師「エドワード・ジェンナー」です。


  ジェンナーが我が子を実験台にして種痘を行ったのは1795年のことですが、彼が病理学的に種痘の予防医学の研究に取り組み始めたのはその15年ほど前でした。然しこの大発見にも拘わらずジェンナーは迫害を受け、実際に種痘が普及し始めたのは19世紀になってからでした。

 

(ジェンナー)

 

 古くから西アジアや中国では、天然痘患者の膿を健康人に接種して軽度の天然痘を起こさせて免疫を得る人痘法が行なわれていましたが、これは安全性に問題がありました。そして1796年に「ジェンナー」が、ウシが感染する牛痘の膿を用いた安全な牛痘法を考案し、これが世界中に広まったのです。       

 

                                     (牛痘を調べるジェンナー)

 

 日本でも江戸中期ごろからぼつぼつその原理と技術が輸入され、文化、文政期からは「種痘家」として知られる医師たちがあちこちに登場しました。
  その後、1849年には佐賀藩の藩医「伊東玄朴」が牛痘種の取り寄せを藩主鍋島直正に進言し、1874年にバタヴィアからの牛痘入手に成功しました。

 

 当時、佐賀藩は長崎の警備を担当していたので、長崎のオランダ商館に直接注文をして輸入することができたのです。また鍋島十代藩主・直正はこの痘苗を江戸藩邸に送り、佐賀藩医の楢林宗建が自分の息子に接種しています。

 


淳一郎種痘の図 (佐賀・伊東玄朴の生家にある掛け軸)

 

 また鍋島直正は、この種痘を4歳の自分の長男「淳一郎」に種痘して、試験した後に大坂の適塾の緒方洪庵などにも分け与えています。

 

 これがきっかけとなり、1860年(万延元年)5月7日に、当時将軍の主治医だった伊東玄朴を中心に、江戸の神田に「お玉が池種痘所」が開設され、牛痘を用いた種痘法が全国的に拡がっていくことになり、この種痘所が、のちに東大医学部の前身になったのです。

 

  

 

   

(伊東玄朴の生家・佐賀仁比山)

 

 お玉が池と言えば幕末の名剣士「千葉周作」の道場があったところ、また万延元年には桜田門外の変があり、幕末の物状騒然たる中で西洋医学は静かに日本に定着していったのです。

 

                                       しらん