「3月10日の東京大空襲」

 

〇「陸軍記念日」 3月10日

 戦前の「3月10日」といえば、まず「陸軍記念日」でしょう。
明治38年、日露戦争の終幕を告げる日露の奉天大会戦で、大山巌元帥が率いる日本軍24万とクロパトキンのロシア軍36万人、合計60万の大軍が18日間に亘って満州の荒野で激闘を続け、ついに日本軍が勝利して奉天になだれ込んだのが「3月10日」だったのです。

 

(奉天会戦で敗走するロシア軍騎兵隊)

 

この戦いで日本軍の死傷者7万5千、ロシア軍は捕虜を含めて死傷者は9万人に上りました。
 そこで、その翌年に3月10日が「陸軍記念日」となり、ついで起こった日本海海戦で勝利した「5月27日」が「海軍記念日」と定められました。

 

   

                     (大山巌総司令官の奉天入城)

 

 〇「東京大空襲」 3月10日

 

 

 この陸軍記念日をわざと狙ったのでしょうか、1945年(昭和20年)3月10日、東京は米軍の無差別大空襲を受けました。 次々に現れる「B29」から投下された爆弾によって東京は10万人焼死 し、100万人が被災して東京の下町の大部分が焼け野が原となってしまったのです。

  

(焼け野が原の東京)

 

(被災後の東京駅)

(空襲による焼死者)

 

 当時日本の高射砲は高度7千mまでしか届かず、また「空飛ぶ要塞」と言われた長距離戦略爆撃機「B29」は日本の戦闘機が届かない高度1万mの亜成層圏を飛び、白雲の線を引きながら悠々と日本上空を旋回していました。

 

(旧式の日本高射砲)

 

このB29のエンジンはライトR3350型と呼ばれ、7600mの上空で最大2300馬力を出すことが出来ました。しかも気密装置が完全で乗員は酸素マスクをする必要がなかったし、燃料タンクの内側には生ゴムが張りつけてあり、もし機銃弾が貫通しても半液体の生ゴムが穴を塞いで、基地に帰るまでは墜落をまぬかれるようになっていました。

 

(B29 戦略爆撃機)

 

 そして合計12個の13ミリ機関銃が前後左右に配置され、また後方に向けては20ミリの機関砲も装備され、しかもこれらの武器はすべてリモコン操作で動かされていました。B29は高度1万mで時速575キロだったのに対し、日本の戦闘機は時速550キロ程度でしたから、日本の戦闘機が飛び立っても到底太刀打ちは出来なかったのです。

 

 シランが豊橋予備士官学校で高師が原で演習中に、突然目の前に日本の複座戦闘機(最新鋭の屠龍だったかも)が舞い落ちてきました。みんな、すぐに駆けつけて乗務員を助け出しましたが、プロペラと共に両翼の固定機関銃がグニヤリと曲がっていたのが印象的でした。

 後で区隊長から聞いた話では、操縦士は高度7千mくらいで気が遠くなり不時着したのだそうです。まだ酸素マスクが無かったのでしょうか。当時の高射砲も高度7千mまでしか届かず、その弾幕の上を名古屋爆撃のために悠々と飛ぶB29を眺めては、演習中の我々はずいぶん歯がゆい思いをしたものです。

 

 

 この空飛ぶ要塞「B29長距離戦略爆撃機」の計画が最初に出されたのは1940年1月で、2年半後の1942年9月にはテスト飛行に成功、それからまた1年後の1943年からは早くも量産体制に入っています。勿論それまでのB16などの長距離爆撃機の技術的な蓄積があったのは否めませんが、計画から僅か3年後に量産に入ったというのは、ほかに例が有りません。いかにアメリカの科学技術が驚異的なものであったかが伺われます。

 

          (サイパンのB29爆撃機群)

 

(無差別にばらまく焼夷弾)

 

 そして終戦までにB294200機という驚くべき機数になっていたのです。広島に原爆を落としたのもB29ですし、日本の敗戦を決定づけたのは、このようなアメリカのすさまじい技術開発力だったといっても過言ではないでしょう。

 

(日本の高射砲によって撃ち落されるB29)

 

*学生時代に、勤労奉仕で大阪城内にあった陸軍造兵廠で働いていた事があります。

職場だった第七工場では、B29を撃ち落とすための5式15㌢高射砲という最新式の巨大高射砲を作っていました。巨大弾丸の装填から、照準、発射まですべてが電動式になっていて、終戦間際にようやく2台が完成、東京の久我山陣地に配備され、一発で2機のB29を撃墜したそうですが、時すでに遅く東京は焼け野が原になっていました。

 

            (5式15㌢高射砲)

 

              (米軍に押収された5式1s㌢巨大高射砲)

 

 

                                          しらん