「九軍神・特殊潜航艇」

 

(特殊潜航艇)

 

 十二月八日、真珠湾攻撃の華々しい戦果の新聞記事の片すみに載っていた「我が方の損害・・特殊潜航艇いまだ帰らざるもの五隻」と言う報道には、国民はあまり関心を示さなかった。 真珠湾攻撃では、航空隊の攻撃とは別に、海軍の「特殊潜航艇」5隻が真珠湾内の敵艦に対して、潜航突入して魚雷攻撃を行った。もちろん、帰還を期さない特攻攻撃であった。  しかし、この特殊潜航艇による海軍特別攻撃隊については、攻撃の翌年昭和17年3月になって初めて発表されたので、それまでは、国民はこの特殊潜航艇については全く知らなかったし、知らされてもいなかったのである。

 

 

(特殊潜航艇乗組員)


 特殊潜航艇の攻撃では、岩佐大尉以下十名の海軍士官たちが5隻の人間魚雷を操って真珠湾奥深く潜航し、アメリカの戦艦に体当たりを行い、戦死した九名は二階級特進したと発表された。
 ところが、五隻の特殊潜航艇には10名が乗るだろうに、9軍神とはどういう事だろうと、多少の違和感があった。その残りの一人が米軍の捕虜となっていたのを知ったのは戦後も相当過ぎてからだった。 十人のうちの一人、酒巻少尉は故障のため海岸に座礁して意識不明になっている所を米軍に発見され、太平洋戦争の捕虜第一号になったのである。

 

              (座礁して打ち上げられた特殊潜航艇)

 


 


 ↑の写真は出撃前の十隊員の記念写真だが、一番左の小柄な広尾少尉(のち2階級特進で大尉)は佐賀県の出身だった。

 

 

 その「広尾彰大尉」は佐賀県三養基郡旭村(現・鳥栖市)の出身で大正9年1月に生まれた。非常に元気な子で小さい頃からケンカ大将だったそうである。 
ある時、いたずらが過ぎて登っていたムクの木から下の池に落ちてしまった。母のカツさんが心配してかけ寄ると「潜水艦の真似をしていた」と平然と笑って居たという。大尉の戦死公報が来たとき、カツさんはこの池に落ちた時の大尉の言葉を思い出して、何か因縁めいたものを感じたという。

 大尉は旧制の佐賀県立三養基中学に入学したが、一年の時は学年で28番の成績だったが、底力のあるガンバリ屋、努力家だった彼は2年生で18番、3年で15番、4年で9番、5年卒業時には2番の成績だった。不得意だった数学は特に努力して勉強したという。当時最高の難関校であった海軍兵学校に入学、昭和15年8月、第六十八期生として海軍兵学校を卒業した。

 昔の中学では成績順に上から海兵、陸士、旧制高校、旧制専門学校に進学するのが習わしで、紫蘭の母校でも230名の卒業生の中で海兵にはわずか3名しか合格していない。陸士は10名ほどだったというのに。。まして海兵などには滅多に合格しない地方の中学からなので、その努力は押して図るべきものがあったのだろう。

 

 彼は海兵卒業後、昭和16年4月に少尉に任官した。そして半年余りのちの12月には、真珠湾の底深く人間魚雷となって散華している。 あまりにも短い人生であった。
 たまたま、16年の夏に帰省した時、母に「自分が戦死したら悲しむでしょうね」と聞いたとき、母が、「お国のために戦死するならば名誉に思う」と、軍国の母らしく勇ましく答えると「それならいいが・・」と、ポツンと答えたという。その時すでに彼は特殊潜航艇の艇長として猛訓練の最中だったのだ。生還を期せない特殊潜航艇の乗組員として、その時の彼の心境は如何ばかりだっただろう。 紫蘭も軍隊に入るとき、兄もビルマの戦場にあり、うすうす戦死したらしい、という戦友からの内報もあって、母一人を残して征くのがとてもつらかった。。


 翌年、「広尾少尉」の遺骨は故郷佐賀にある「肥前旭」という、寒々とした小さい停車場に帰ってきた。 しかし、おそらく、遺骨箱の中身は出撃前に切った遺髪だけではなかったにだろうか。

 

(広尾大尉の遺骨、故郷へ無言の凱旋)

 

 昭和17年4月8日、東京で九軍神の海軍合同葬がしめやかに行われた。それから間もなく「母よ、嘆くなかれ」という題名の映画が佐賀県かでも上映されたそうだが、シランは見に行った記憶がない。あまりに現実の戦争の展開が激しくて、映画を見るなどの余裕がなかったのか。。

 航空機のすさまじい戦果に目を奪われて、特殊潜航艇の決死の攻撃には光が当たらなかったのだろう。或は、戦争中の事ゆえ、奇想的ともいえる特殊潜航艇については軍事的秘密のベールに覆われざるを得なかたのかもしれない。

                                           
                                                                          しらん