「警察官の誕生」
 1871年(明治4年)10月23日、東京府は邏卒(らそつ)3000名を置くことにしました。これが日本の警官の始まりです。
 
これより先、大政奉還のどさくさで幕府の司法体系が乱れて、江戸に入ってきた官軍の藩兵が治安維持に当たっていましたが、いっこうに統制が取れません。そこで誕生したのがこの邏卒なのです。邏卒とは市中を巡邏するという意味で、その「巡邏査察」が略されて、「巡査」になりました。ついでですが、「警察」「警備査察」の略称です。
 
  
(新選組の斎藤一も巡査になった)

 
 こうして集められた3000人の内訳を見てみると、まず西郷隆盛川治利良がそれぞれ1000名づつ鹿児島で募集しました。川治はのちにヨーロッパ警察制度を視察して司法の専門家になりましたが、彼も西郷に親しい薩摩人でした(*初代の司法卿は佐賀の江藤新平でしたが、佐賀の乱で逮捕され、佐賀城内で斬首されました)
 
     
 
(西郷どん)と〈川治利良)
 
 残り1000名がその他の府県から採用されましたが、東京の治安は殆ど全面的に薩摩の手にゆだねられたような有様でした。人を呼び止めるときに「オイコラ」と言う横柄な言葉を使いますが、これももともとは薩摩弁で、鹿児島では「これこれ、ちょっと・・」と言う程度の響きだそうですが、まだ江戸文化が残る時代ですから、とても横柄で尊大に聞こえました。
 
 
 邏卒の勤務規律はとても厳しく、全員が屯所に合宿し、家族があっても外泊禁止、勤務時間以外でも制服を着用し、酒を飲むことも正月や節句などの年5回だけというきびしさでした。江戸時代の与力同心はみな刀を持っていましたが、邏卒の武器は木製の三尺棒だけでした。然し、それほど厳しかったからこそ、市民の厚い信頼を受けることが出来たとも言えましょう。
 
(明治の警察官)
 
 こんな重い責務の割には、警官の生活は決して楽ではありませんでした。当時の官吏の月給を見てみると、大臣の500円はともかく最低の17等判任官でも12円でしたが、それに対して一等巡査が7円、4等巡査になるとわずかに4円に過ぎませんでした。警察官が判任官待遇となって身分が安定したのは明治24年のことですが、それでも日雇い人足の給料と同じでした。。
 
 
                                                 しらん