「美人コンクールの始まり」 9月19日


 妙齢の美女をずらりと並べて、その中で誰が一番美しいかを投票で決めるというのは、アメリカ人の発明によるもので、19世紀半ばにはもう始まって居たようですが、保守的なヨーロッパにもこの習慣が伝播して、まずベルギーで1888年9月19日にヨーロッパで始めて「美人コンクール」が開かれました。

 

       

                 (2003年の美人コンテスト)

 

 その応募者は350人ほどで、第一次審査は写真で行われ、この審査で選ばれた21名が最終審査に残りました。
 審査員たちは予断を与えないために、又候補者間に不当な競争意識をあおらないため、この21名の女性たちは互いに隔離された宿泊施設に入れられ、ご丁寧にも審査会場に向かう馬車の窓も締め切られていました。

 会場に着くと彼女たちはそれぞれ男性介護人にて手をとられ、静々と入場しました。服装はみんな竜骨入りのロングスカートで、その風景はひとことで言うなら、優雅な中世の「宮廷風俗」とも言うべきものでした。
 このコンクールで優勝したのは18歳の「B・スカレ嬢」で、彼女はこれがきっかけで女優になりました。

 

 一方、アメリカの方では、1921年から美人コンクールは水着で、ということになり、この年にそのコンクールの優勝者が同時に「ミス・アメリカ」の栄冠を与えられるようになりました。

 

(水着姿の美人コンクール)ウーン!みんな見事な足ですねー)

 

 ちなみにこの第一回「ミス・アメリカ」に選らばれたのは「M・ゴーマン嬢」、まだ年齢15歳、身長は152.5センチでした。。。 
* 「ゴーマン嬢」が傲慢なお嬢さんだったかどうかは定かではありません。。(*^_^*)

 

 ちなみに、日本の美人コンクールは、明治41年3月にはじめて開催されています。

これは現在のように出場者を舞台の上に集めて審査を行うというようなものではなく、写真による審査でした。

 

 それまでは芸者を対象にしものはありましたが、良家の子女を集めたコンクールはこの時が初めてでした。その美人第一位は小倉市長の令嬢「末弘ヒロ子さん」で、まだ16歳、女子学習院中等部2年生でした。

 

                 第一回美人コンテスト一位の末弘ヒロ子さん

 

 当時、ヒロ子さんは女子学習院の中等科の生徒で、義兄が勝手にコンテストに応募したことを知らず

「それはたいへん。もし万が一、3等にでも這入ろうものなら、また学校がうるさいから、どうかしてそんな事のない様にしてもらいたい」
「一等に当たったなんぞと、私困ります。かの写真は一等か存じませんが、私は一等ではありません」
 と困惑しています。

 

 当時の学習院は風紀を重んじる学校で、学習院院長だった「乃木希典大将」は「けしからん!」と猛反対し、ヒロ子に退学を命じました。その代わりに、乃木院長はヒロ子に結婚相手を探してあげました。その相手は野津大将の息子「野津鎮之助」でした。そして自ら仲人になったといいます。野津家といえば侯爵家。ヒロ子は乃木のはからいにより、侯爵夫人という幸せをつかんだのでした。

 

(乃木大将)

 

 その時の賞品は、1等が18金のダイヤモンド指輪で価格300円でした。この300円のダイアモンドは、尾崎紅葉の「金色夜叉」のヒロイン・お宮がダイアに目がくらんで貫一を裏切ったのと同額でした。当時の教員の初任給が10円ほどでしたから、今ならいくらになるでしょうか。。

 

 

 戦後初めての昭和25年(1950年)のミス日本コンテストでは、大阪船場の綿花問屋「山重」の長女「山本富士子さん」が選ばれました。彼女は大映の女優となり、のちに作曲家の山本丈晴と結婚しています。

    

  

 

       「山本富士子さん」  きれいでしたね。

 

                    

                                  しらん