「近江屋事件・竜馬の暗殺」

 

〇「ええじゃないか」
 慶応3年には全国に 「ええじゃないか騒動」 が起こった。この「ええじゃないか」はまず、1867年に東海地方に起こり、近畿・四国・甲州・信州などの各地に波及した大衆乱舞の騒動である。

 

 

 伊勢神宮のお札などが空から降ったことを契機に、「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ。」という話が広まって、民衆が仮装するなどして「ええじゃないか」「ええじゃないか」 と囃しながら集団で、町や村を巡り歩いて熱狂的に踊ったのである。これは民衆の世直し要求をする一種の宗教的な熱狂であり、討幕派はこれを社会攪乱に利用したと言われている。

 

 〇 「近江屋事件・竜馬の暗殺」

 

 文久2年5月21日、島津藩主・久光によって尊攘派の志士たちが京都、伏見の船宿 「寺田屋」 で襲撃を受けたが、このとき坂本龍馬はピストルで応戦し、恋人のお龍の気転で危うく難を逃れた。

 ついで 慶応3年11月15日(1867年12月10日)には京都河原町の醤油屋・近江屋(井口新助宅)の二階で、坂本龍馬 と中岡慎太郎、龍馬の従僕であった山田藤吉 の3人が京都見廻り組の組頭・佐々木只三郎以下7名によって暗殺された、いわゆる 『近江屋事件』 が起こった。

 

 

   (坂本龍馬遭難の地)

 

 この暗殺に新選組 は直接関係していない。ただ、暗殺者が坂本に斬りつけた瞬間、「コナクソ」 という四国言葉を使った事と、現場に残された蝋色の刀の鞘 が、松山藩出身の新選組隊員 原田左之助 のものだったという証言があり、また前日新選組に貸した先斗町の瓢邸の焼き印がある下駄 があったので、新選組がひどく疑われた。

しかし、明治2年の刑部省の判決によれば、下手人は見廻組の 佐々木只三郎 以下七名となっている。 

 

  

  佐々木只三郎             只三郎の血染めの鎖帷子

 

 二階へ押し入った見廻組の渡辺吉太郎、高橋安二郎、桂準之助 の三名のうち二人が竜馬、中岡 の両名を斬り、一人が下僕の藤吉 を倒したのである。はじめ、藤吉 が切られた時、竜馬中岡 と話していて、何かふざけていると勘違いしたのか土佐弁で「ホタエナ・騒ぐな」 と叱りつけ、その言葉が終わるか終わらぬ間に、一人の刺客が「コナクソ」と叫んで中岡 の後頭部に切りつけ、一人は竜馬 の前額部に一太刀浴びせた。

 

   

        (坂本龍馬と中岡慎太郎)

 

 竜馬の創は脳漿が流れ出るほどの深手だったが、床の間にあった西郷吉之助 から贈られた吉行作の二尺二寸五分の愛刀を取ろうとして、後ろ向きになった所を二太刀目を右肩から左の背骨にかけて深く負ってしまった。

 

 北辰一刀流の免許皆伝である竜馬 はなお屈せず、刺客に立ち向かったが、刀を抜く暇もなく三太刀めを鞘のまま受け止めたが、敵の刃は竜馬の刀身を鞘ごと三寸ほども削って、竜馬の額を鉢巻き状に撫で切りにしてしまった。「石川、石川、刀はないか」 と、悲痛に叫んで竜馬は倒れてしまった。石川とは中岡の変名だった。

 

坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像
 

 近藤勇の妾だった深雪太夫の話では「近藤さんは二人が斬られた時、病気で妹の所に臥せっていた」そうである。その後近藤が「佐々木只三郎 らが坂本をやったので、愉快に酒が飲める」と言って佐々木を呼びにやり大一座で酒宴を開いたという。

 

 事件の二日前、隊員の伊東甲士太郎 (かしたろう)が藤堂平助 を連れて竜馬に会い、「近頃、貴殿を狙う者がいる。危険だからすぐ土佐藩邸に移りなさい」と忠告したが、竜馬はやや傲慢な態度で、甲士太郎の好意に対して、ろくにお礼の言葉も発しなかった。何しろ相手が志士たちを襲った当の新選組なので信用しなかったのだろう。

その甲子太郎 が三日後の18日に、皮肉にも同じ新選組の刃によって倒れるとは・・

 

                                                しらん