〇 「長州征伐」

 1864年(元治元年)6月5日、尊王攘夷派の志士たちが、京都の池田屋で新撰組に襲撃される「池田屋事件」が発生したことから、桂小五郎(木戸孝允)や高杉晋作らは反対したが、長州藩の過激派の来島又兵衛久坂玄端らは強引に京都に兵を進め、同年7月19日、御所を警固していた薩摩や会津・桑名藩を主とする藩兵と衝突,いわゆる「禁門の変」(蛤御門の変)が勃発した。

 

(蛤御門)

 

 長州勢は、始め蛤御門を守る会津藩兵に対し優勢であったが、乾の御門を守備していた西郷隆盛が率いる薩摩藩が加勢に駆けつけて長州勢を破り、来島又兵衛は戦死した。また、鷹司邸付近では久坂玄端の隊が奮闘したが及ばず、久坂も自刃し長州勢は敗退した。

 

     

来島又兵衛                久坂玄瑞

 

 戦いは1日で決したが、京の町は3日間燃え続け、公卿屋敷数十軒と民家2万8千戸が焼失し、避難民があふれた。この勢いを機に、幕府は長州藩を一気につぶそうと計画、天皇の勅命をいただき、8月2日、諸藩に対し長州征討の命を下し21藩がこれに備えた。

 

 8月28日、長州征伐の先鋒を命じられた伊予・松山藩では直ちに長州行き郷士の調達を始め、10月中旬から長州攻めの諸藩の藩兵が続々と出発した。瀬戸内の大三島の宮大工「藤井此蔵」は、諸大名の大軍が海陸両道を攻め下るのを見聞きして「身の毛もよだち、噂に聞くも恐ろしき事也」と、書いている。

 そして松山藩である大三島では1000人の軍用水主(カコ・水夫)を差し出すよう指令があり、此蔵の住む井口村では15歳から60歳までの男のうち庄屋や組頭、病人などを除き、270人がクジを引いて98人を決め村から一人一両が与えられて出発した。

 

                            (長州征伐の幕府軍)

 

 幕府は尾張藩主徳川慶勝を征討総督として長州に進軍、長州藩は前の列国艦隊の攻撃で打撃を受けており,恭順派が藩論を支配して元治1年12月に降伏。藩主父子は服罪した。

 長州藩が降伏して、尾州様(尾張・徳川家)が広島に着陣されると、長州の家老・福原ら三人の首を実験に供えられ、萩の長州藩・大殿様は剃髪、若殿はご切腹、領地は半分差し上げ、山口の新城を取り壊して降参した、と「此蔵」は聞いている。

 

(長州征伐)

 

 ついで慶応元年 (1865年)になると、長州藩論が高杉晋作らの倒幕派によって固まり、幕府との和平交渉も打ち切られたので,江戸幕府は14代将軍徳川家茂みずから征討の指揮をとって,慶応2年6月から再び開戦となった。

 

(第2次征長の幕府軍)

 

 しかし、この第2次長州征討は参加した諸藩が開戦に消極的だったのに対し、薩摩藩の後援を得た長州藩の士気は高く,幕府軍は敗戦を重ねて8月には、将軍「家茂」の死去を理由に征長を中止し,これを契機に幕府の権威は急速に失墜してしまったのである。

                                               しらん