ヤフーブログは今年12月で終了するそうなので、「紫蘭の部屋」も5月には「アメーバーブログ」に引っ越すつもりですが、十数年、書きなじんだマイブログと、いろいろとコメントを頂いた皆さんとの別れがつらく、いましばらくは駄文を書いておこうと思っています。

  (41) 「小平事件」

  戦後の動乱期、10年ほどの間は、食糧難と性的欲望の解放によるいわば、「犯罪の季節」とも言うべき時代だった。その間、人を驚かすような様々な凶悪犯罪が頻発したが、そのなかでも終戦直後に報道された「小平事件」はそのあまりの残虐さに世人の耳目を驚かせたものである。


イメージ 1 「小平事件」 は戦時末期の昭和20年から敗戦後の昭和21年にかけて起こった連続強姦殺人事件で、7人の若い女性が次々に被害に遭った。戦中、戦後の食糧難に付け込んで、言葉巧みに食料や職業のあっせんを持ちかけて山林に誘い出し、強姦して殺すという手口である。

 犯人の「小平義男」は「性欲旺盛な野獣のような男」と言えるが、見た目は精悍で、わりと紳士的なところもあったそうである。そして食糧や職を求めていた10人の女性(3名は証拠不十分で不起訴)が次々と彼の毒牙にかかることになった。

 そして昭和21年に、小平は7人目の被害者である17歳の女性を就職のあっせんをすると誘い出し、公園裏で強姦殺害して逮捕された。


 彼女は銀座の喫茶店に勤めていたが、店が閉鎖することになっていて次の職探しに懸命だった。
小平が彼女に声をかけた時に、彼女の母に本名を名乗っていたのが、逮捕につながった。
 そして裁判の結果、昭和24年10月に死刑を執行されたのである。 享年44歳。

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                                         (死刑判決後、退廷する犯人・小平義男)


 死刑判決直後は粗暴な態度が目立った死刑囚の小平だったが、面会に来た妻や教誨師との交流によって次第に態度を改めていったそうである。 
 小平は死刑執行の日、6時半に起床。朝食を食べた後、窓の外の秋雨を眺めて、中川玄昭教誨師に「こういう落ち着いた日に死ねるのは幸福だ」と話した。そして刑務所長に宣告されると、マンジュウを食べ、煙草をふかした後、妻に遺言状を書いた。

「自分は荘厳な気持ですべてを清算し、静かな気持で死んで行きます。長い間、お世話になった人々によろしくお伝え下さい。家族の者もどうぞ天命を完うして下さい」

  また次のような辞世の句も書いている。

     亡きみ霊 赦し給へし過去の罪 
       今日の死を待ち 深く果てなん

 彼の予審調書によれば

「上海事変当時、太沽では強姦のちょっとすごいことをやりました。仲間4、5人で支那人の民家へ行って父親を縛りあげて、戸棚の中へ入れちまって、姑娘を出せといって出させます。それから関係して真珠を取ってきてしまうんです。強盗強姦は日本軍隊のつきものですよ。銃剣で突き刺したり、妊娠している女を銃剣で刺して子供を出したりしました。私も5、6人はやっています。わしも相当残酷なことをしたもんです。」 と述べている。

 旧日本軍隊時代のこのような暴行の体験が、彼の人間としての良心を狂わせ、道徳心を失わせたのかもしれない。 そういう面では、彼の事件もまた戦争の産み落とした汚点の一つともいえるだろう。
 とにかく、生きるか死ぬかの瀬戸際にある戦場では、人間を悪魔にしてしまうのである。

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                 ちるさくら海あをければ海へちる      高屋窓秋


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