(38) 「戦後の学園」 

 昭和20年10月1日、私は軍隊から九大に復学した。(*旧制なので正式には九州帝大)
 軍隊から帰ったままで、まだ制服・制帽がないので、知り合いの先輩の角帽を借りて、始業式に出かけて校門前で待っていると、外語の同窓で豊橋予備士でも同期だった親友の関谷がやってきた。 彼は開口一番「おう!!・・太ったなぁ!」と言いながら手を差し伸べてきた。  予備士官学校ではよほど痩せて居たのだろうか、それとも戦争が終わって、軍隊と家で食べる食べ物の違いのせいだろうか・・ 

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                                         (旧・九州帝大、正門・後方は法文学部)

 打ち続く戦争の時代から敗戦という大きな代償のおかげで、ようやく得た平和の時代、再び帰らじと決心して軍隊に入ったのに、命永らえてまた母校の校門で再び彼と会おうとは・・全く信じられない気持ちであった。彼は軍隊でも成績優秀だったのだろう、卒業後は部隊に配属されずに、次期幹部候補生たちの教官として予備士に残っていたのである。 

 そのころの博多は空襲の被害で瓦礫の町と化していたが、復興は早かった。薄汚れた旧博多駅も健在だったし、チンチン電車も走っていた。特に映画館の復興は早く、中洲を始めあちこちに映画館が乱立した。博多駅から箱崎に向かう通学のチンチン電車の窓の中から、千代町の角に出来た大きな「国際映画劇場」を横目に眺めながら学校に通ったものである...

  
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                                                   (旧・博多駅)


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                   (終戦直後の博多の街・向こうに見えるのは、岩田屋か?)
 

 イメージ 7紫蘭の九大での学部は法文学部だった。旧制の「九州帝大」は1924年(大正13年)、東京帝国大学、京都帝国大学に次ぐ三番目の法文学部が九州に開設されて、これまでの医科大学、工科大学と統合されて総合大学としての九州帝国大学が発足していた。戦前の国立の総合大学は、東京、京都、東北の4帝大だけであった。

  法文学部の本館は箱崎の九大キャンパス正門の真正面に、1925年に建設され、我国における西南学派の拠点、という建学の理想を象徴する倉田謙設計の堂々たる白亜の殿堂で、当時は九州初の帝国大学のシンボルとして福岡の市民に賞賛されたものである。 そして帝大法科創設を志して東京帝国大学法学部教授から勇躍九州の地に乗り込んだ美濃部達吉博士ほか、新進気鋭の若き知の探求者たちが全国から集う知の殿堂だった。
 美濃部達吉博士は戦前、天皇機関説を唱えて世の耳目を集めた高名な憲法学者だった。            

 
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                                                  (旧九大・法文学部)


 戦後の社会は日独伊などの全体主義国家の崩壊から、左翼思想全盛の時代であった。戦前からのマルクス経済学の総帥であった向坂逸郎教授の伝統を引く九州大学経済学部の教授たちは、三池炭鉱の闘争に代表される「総労働対総資本」の戦いのなかで、総労働側の理論的後ろ盾となった。また60年、70年安保闘争、学園紛争の際には、法学部、経済学部教授ともに学園封鎖のバリケードのなかでヘルメットをかぶって立てこもる側に回り、反戦と大学自治のために闘争を繰り広げたが、この反権力、反体制は当時の九大法文系の伝統となっていたのである。

 イメージ 3九大はさいわい空襲の被害はまぬかれていたが、どの校舎も敵機の目をくらます為のカムフラージュ(迷彩)が施され、自分の専攻の経済学科のビルもめちゃくちゃに真っ黒なコールタールが塗りたくってあって、創立時に白亜の殿堂と言われた面影は全く無くなっていた。た。 

 そして戦時中追放されていた革新的経済学教授が数多く復帰し、資本論特講の向坂逸郎、統計学の高橋正雄、経済学史の波多野鼎(*のち片山内閣の商工大臣)、憲法の河村又助(*のち最高裁判事)、労働法の菊池勇夫、農業政策の田中定教授など、錚々たる論客が揃って、まさにマルクス主義経済学全盛ともいうべき学園であった。

  イメージ 6法文学部は、法学科、、経済学科、文学科の三つに分かれていた。紫蘭の専攻経済学科である。
  戦後の九大経済学科は、東大と京大派閥の争いだったともいえるだろう。東大からは経済史の石浜地行教授、マルクス経済学の向坂逸郎教授、経済学史の波多野鼎教授、統計学の高橋正雄教授がおり、方や京大派には財政学の三田村教授、社会政策の森耕二郎教授、経済学概論には高田保馬教授がいて、両派の勢力は正に伯仲という有様だった。
 
思想的に見れば、東大派は革新的左翼マルクス主義であり、京大派は古典主義的な右翼思想だったともいえるが、甘辛基準で分ければ、「労農派」と呼ばれた「東大派」は酒を飲まない甘党が多く、労農派の総帥でマルクス経済学ピカ一の存在だった向坂教授などはぜんざいを七、八杯も食べてなお、けろりとしていたというし、石浜教授は両刀使いだった。

 イメージ 10一方、講座派と言われる京大派にはのん兵衛が多かった。
高田保馬教授はシランの母校の中学出身だが、変り者で通っていた。
 
九大教授時代には故郷の佐賀県から汽車で通い、三日月村住民と称して、いつも水を入れた大きな水筒を肩からぶら下げて、水ばかりガブガブ飲んでいたそうだが、元々胃が悪かったらしい。

 ←高田保馬著 「経済学概論」


  博多から家に帰るときはいつも牛肉を買って帰るが、田舎の家なので駅からは遠い。 
そこで汽車が通るころに、夫人がいつも線路わきに待っていて、彼が汽車の窓から牛肉を投げ落とすのを夫人が拾って家に持ち帰り、すぐにスキヤキの用意に取りかかって、先生が家に着く頃はもう鍋が良い臭いを立てているのである。さすが経済学者だけあって、時間の使い方も経済的だと言わざるを得ない。

  高田博士はまた歌人でもあった。母校の中学(西高)の校門前に、その歌碑が建てられている。

                  故里の山はなつかし母の背に
              昔ながめし野火のもゆるも       保馬
  
  
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                (母校の中学正門前にある歌碑)

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(野火の風景)

 むかし、早春の土手やあぜ、道端の枯れ草を焼く野火を見ると、山村の子供たちは面白がって走って行って見に行ったものだ。野焼きは害虫やその卵を焼き殺し、牛馬ばの餌となる草を生やすための地区民総出の苦役であった。子供たちは争ってマッチで枯草に火をつけ、あまり火が広がると笹竹を持って叩き消すのである。
        
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