(38) 「戦後の学園」
昭和20年10月1日、私は軍隊から九大に復学した。(*旧制なので正式には九州帝大)
軍隊から帰ったままで、まだ制服・制帽がないので、知り合いの先輩の角帽を借りて、始業式に出かけて校門前で待っていると、外語の同窓で豊橋予備士でも同期だった親友の関谷がやってきた。 彼は開口一番「おう!!・・太ったなぁ!」と言いながら手を差し伸べてきた。 予備士官学校ではよほど痩せて居たのだろうか、それとも戦争が終わって、軍隊と家で食べる食べ物の違いのせいだろうか・・
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190609/19/siran13tb/5f/2e/j/o0700038414454608114.jpg?caw=800)
(旧・九州帝大、正門・後方は法文学部)
打ち続く戦争の時代から敗戦という大きな代償のおかげで、ようやく得た平和の時代、再び帰らじと決心して軍隊に入ったのに、命永らえてまた母校の校門で再び彼と会おうとは・・全く信じられない気持ちであった。彼は軍隊でも成績優秀だったのだろう、卒業後は部隊に配属されずに、次期幹部候補生たちの教官として予備士に残っていたのである。
そのころの博多は空襲の被害で瓦礫の町と化していたが、復興は早かった。薄汚れた旧博多駅も健在だったし、チンチン電車も走っていた。特に映画館の復興は早く、中洲を始めあちこちに映画館が乱立した。博多駅から箱崎に向かう通学のチンチン電車の窓の中から、千代町の角に出来た大きな「国際映画劇場」を横目に眺めながら学校に通ったものである...
![イメージ 9](https://stat.ameba.jp/user_images/20190609/19/siran13tb/41/f5/j/o0600037614454608129.jpg?caw=800)
(旧・博多駅)
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190609/19/siran13tb/35/e2/j/o0518036214454608141.jpg?caw=800)
(終戦直後の博多の街・向こうに見えるのは、岩田屋か?)
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20190609/19/siran13tb/0e/b8/j/o0405043214454608158.jpg?caw=800)
法文学部の本館は箱崎の九大キャンパス正門の真正面に、1925年に建設され、我国における西南学派の拠点、という建学の理想を象徴する倉田謙設計の堂々たる白亜の殿堂で、当時は九州初の帝国大学のシンボルとして福岡の市民に賞賛されたものである。 そして帝大法科創設を志して東京帝国大学法学部教授から勇躍九州の地に乗り込んだ美濃部達吉博士ほか、新進気鋭の若き知の探求者たちが全国から集う知の殿堂だった。
美濃部達吉博士は戦前、天皇機関説を唱えて世の耳目を集めた高名な憲法学者だった。
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20190609/19/siran13tb/66/85/j/o0600037914454608166.jpg?caw=800)
(旧九大・法文学部)
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190609/19/siran13tb/ff/c7/j/o1638233914454608206.jpg?caw=800)
そして戦時中追放されていた革新的経済学教授が数多く復帰し、資本論特講の向坂逸郎、統計学の高橋正雄、経済学史の波多野鼎(*のち片山内閣の商工大臣)、憲法の河村又助(*のち最高裁判事)、労働法の菊池勇夫、農業政策の田中定教授など、錚々たる論客が揃って、まさにマルクス主義経済学全盛ともいうべき学園であった。
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20190609/19/siran13tb/78/15/j/o1545214914454608248.jpg?caw=800)
戦後の九大経済学科は、東大と京大派閥の争いだったともいえるだろう。東大からは経済史の石浜地行教授、マルクス経済学の向坂逸郎教授、経済学史の波多野鼎教授、統計学の高橋正雄教授がおり、方や京大派には財政学の三田村教授、社会政策の森耕二郎教授、経済学概論には高田保馬教授がいて、両派の勢力は正に伯仲という有様だった。
思想的に見れば、東大派は革新的左翼マルクス主義であり、京大派は古典主義的な右翼思想だったともいえるが、甘辛基準で分ければ、「労農派」と呼ばれた「東大派」は酒を飲まない甘党が多く、労農派の総帥でマルクス経済学ピカ一の存在だった向坂教授などはぜんざいを七、八杯も食べてなお、けろりとしていたというし、石浜教授は両刀使いだった。
![イメージ 10](https://stat.ameba.jp/user_images/20190609/19/siran13tb/3d/9e/j/o0423042314454608269.jpg?caw=800)
高田保馬教授はシランの母校の中学出身だが、変り者で通っていた。
九大教授時代には故郷の佐賀県から汽車で通い、三日月村住民と称して、いつも水を入れた大きな水筒を肩からぶら下げて、水ばかりガブガブ飲んでいたそうだが、元々胃が悪かったらしい。
←高田保馬著 「経済学概論」
博多から家に帰るときはいつも牛肉を買って帰るが、田舎の家なので駅からは遠い。
そこで汽車が通るころに、夫人がいつも線路わきに待っていて、彼が汽車の窓から牛肉を投げ落とすのを夫人が拾って家に持ち帰り、すぐにスキヤキの用意に取りかかって、先生が家に着く頃はもう鍋が良い臭いを立てているのである。さすが経済学者だけあって、時間の使い方も経済的だと言わざるを得ない。
高田博士はまた歌人でもあった。母校の中学(西高)の校門前に、その歌碑が建てられている。
故里の山はなつかし母の背に
昔ながめし野火のもゆるも 保馬
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190609/19/siran13tb/c4/a1/j/o1024076814454608289.jpg?caw=800)
(母校の中学正門前にある歌碑)
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![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20190609/19/siran13tb/0d/06/j/o0880065314454608311.jpg?caw=800)
(野火の風景)
むかし、早春の土手やあぜ、道端の枯れ草を焼く野火を見ると、山村の子供たちは面白がって走って行って見に行ったものだ。野焼きは害虫やその卵を焼き殺し、牛馬ばの餌となる草を生やすための地区民総出の苦役であった。子供たちは争ってマッチで枯草に火をつけ、あまり火が広がると笹竹を持って叩き消すのである。
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