(34) 引き揚げ

 戦場の兵士のみならず、銃後の国民まで巻き込んだ悲惨な戦争は、8月15日の終戦の詔勅によって、ようやく幕を閉じた。
そして、日本の無条件降伏の降伏文書の調印は昭和20年9月2日、東京湾のアメリカ戦艦ミズリー号上で行われ、同時に連合軍最高司令官・ダグラス・マッカーサーが軍事指令第一号を発して、日本の軍隊の降伏方式を決定した。

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                                     (ミズリー号上で調印する・外務大臣重光葵)


 そのとき、外地に残された日本の軍隊は約370万人であり、その内訳は満州・朝鮮に約100万、中国に約110万、南方諸域に約160万の陸海軍軍人が居た。  そのほか大陸各地の居留民は300万人近くも残っていたと言われている。
 敗戦後、外地に残されていた軍人たちの帰国は必ずしも順調ではなかった。船舶の多くが戦争で失われたため引き揚げが遅れ、降伏後も南方の孤島などに取り残されて、むざむざと餓死者を出したり、長期の強制労働に従事させらりした。

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                                    (昭和30年、無蓋貨物車に乗る満州の在留邦人)


 特に、戦後ソ連軍によってシベリアに連行された満州駐在の諸部隊、イギリス軍進駐地域に駐在していた南方の部隊は、強制労働を課せられて苦難の日々を送った。
 満州の関東軍がソ連参戦と共に、いち早く総退却して在留民間人を置き去りにしたことは、特に国民に衝撃を与えた。青壮年の多くを軍隊に引き抜かれて、残っていたのは老幼婦女子ばかりであったのである。

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                                              (シベリア引き揚げ将兵の第一陣)

  
 あの「日本陸軍最強の軍隊」と信じられていた「関東軍」の敗走は国民にとっても信じがたい出来事であった。ソ連軍侵攻時に満州や北朝鮮で暴行略奪事件が多発したことは、中国における日本軍による暴行略奪と合わせ考えると、戦争の悲惨な現実を思って慄然とする。
 
 イメージ 4満州からの引き揚げ業務は著しく遅れ、終戦後3年経った昭和23年8月になっても、まだ数万の日本人が取り残されていたという。また捕虜となってソ連各地に分散抑留されて強制労働に服していた人びとの帰国は昭和31年までも続いたのである。
 やっと母国の岸壁にたどり着いた人たちの中で、特に涙を誘ったのは幼い子供たちの疲れ切った姿であった。  

  イメージ 5小さい引き揚げ者たちは飢えと恐怖におびえ、長い間の徒歩と無蓋貨車の旅を続けてきたのである。引き揚げの風景を写した当時の写真には、眠っている妹を背中に縛りつけ、長い旅路の炎熱を辛うじて避けてきたであろう編み笠をしっかりと手に握っている。

 イメージ 6中でも特に目を引くのは、奉天孤児収容所の前で撮られた少女の写真である。(昭和21年7月)
 母の遺骨を首から提げて、やせこけた素足に粗末な草履を履き、呆然とあらぬ方を見つめている。
 少年と見えるこの子は実は女の子である。逃避行中の暴行を避けるために、髪を切り坊主頭となって朝鮮北部から奉天まで約600キロの道のりを半年がかりで歩いてきたそうである。

  その後のこの子の運命はどんなものだったのだろうか。心が痛む。
  
  また、帰国の望みを絶たれ、異国の土と化した日本人や大陸進出の声に踊らされた開拓者たち、あるいは取り残された「中国残留孤児」たちの悲劇を思うとき、私たちは戦争のもたらす惨禍をいつまでも忘れてはならないのである。

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(樺太からの引き揚げ船)

*家内の叔母や従兄たちも樺太から引き揚げてきた・・


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                                                 (埠頭で引き揚げ船を待つ人々)

      
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                                                           (舞鶴港の引き揚げ)
                          *   従姉は乳飲み子を抱えて、北朝鮮から引き揚げてきた。
               夫はシベリアに抑留されたまま、ついに帰らなかった・・
         
           
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                                                  (佐世保港の引き揚げ)

                       *  姉夫婦は、中国の南京から佐世保港に引き揚げて来た・・

            
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                                        (廃墟の博多港に引き上げてきた復員兵)    
 
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                                                  (引き揚げ列車)

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                                  (引き揚げ者住宅には、旧軍隊の兵舎が使われた)
                佐賀では協楽園と言ったが、今はもうあと形もない。。


         ♪ 異国の丘

                                     https://youtu.be/9hkoI_r3MLM

             今日も暮れゆく 異国の丘に
             友よつらかろ   切なかろ
             我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ 
             帰る日も来る   春が来る


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