(219)  「学徒出陣」

   今日は10月21日.
    75年前の今日、昭和18年10月21日、東京で学徒出陣の壮行会があった。。

                     
イメージ 1
                                          (神宮外苑の学徒出陣壮行会)

 戦前の学生には「徴兵猶予」という特別の制度があった。
 大学、高専の学生は満20歳の徴兵検査に合格しても、実際の軍隊への入隊を学校卒業まで延期してもらえるのである。  
 しかし、戦争が激化してくると、もはや学生という身分に安閑として居られる状態ではなくなった。
そこで、昭和18年には、「徴兵猶予制」が停止され、理科系を除く大学、高専の法文系の学生たちは、学業半ばの仮卒業となって、慌ただしく軍隊に入っていった。当時は今ほど医師の社会的地位も人気もなかったのに、徴集を逃れるために理系の医学生を志望する者もいたという。

 イメージ 7彼ら文系の学生が入隊する前に、各地で学徒出陣学生のための壮行会が開かれた。
  大阪では、11月16日、中の島公園で壮行会があり、ついで御堂筋で鉄砲担いで学生の分列行進が行われた。 紫蘭も彼らを送る側で参加したが、出陣した同期生たちが果たして何名参加したかは定かでない。9月30日にすでに仮卒業が済んでおり、大阪近郊の者以外はそれぞれの郷里に帰ってしまって居たからである。

 
 東京の「出陣学徒壮行会は昭和18年10月21日に、雨中の神宮外苑で行われた。今でもテレビの画像で感動を呼ぶこの壮行会では、冷たい雨の中を東大を先頭に、学生服にゲートルを巻いて小銃を担いだ学生たちが水溜りの中をしぶきを上げながら行進した。

  イメージ 6東条英機首相の甲高い壮行の辞に続いて、東大学生の答辞があり、ついで荘重な「海ゆかば」の大合唱が起こった。  

    ♪海ゆかば 水漬くかばね
      山ゆかば 草むすかばね・・・

    
 
 地の底からうめくような6万人の大合唱が神宮外苑の森を包んだ。あの、学生たちの雨中の行進は、当時の日本人の脳裏からいつまでも消えることはないであろう。そして、学生から陸軍の特別操縦生【特操】や海軍の【予備学生】となった者たちの多くは、特攻隊員として南海の果てに散っていったのである。

 イメージ 5この学徒出陣には、早稲田の学生だった「竹下登」や明大の「村山富市」神戸商大の「宇野宗佑」など、のちの総理大臣経験者もいた。また同志社の裏千家「千玄室」は学徒出陣で予備学生から特攻隊になったが、出撃前に戦争が終わって助かっている。
 
この時同じ部隊で生き残ったのは、千と同じ学徒出陣で日大から海軍予備学生になったのちの俳優の「西村晃」の二人だけだったという。また、台湾生まれの「李登輝」台湾総統も京都大学在学中に学徒出陣している。

 当時、慶応大学の塾長だった小泉信三氏はこの年の前年、海軍主計大尉だった子息を戦死させていたが、学徒出陣のはなむけとして野球の早慶戦を行うことを思いつき、実現した。


  そして、雨中の壮行会の5日前の10月16日、快晴の戸塚球場で「出陣学徒壮行早慶戦」が行われ、10対1で早稲田が勝った。 試合後、早稲田は慶応の、慶応は早稲田の応援歌を合唱したが、やがてそれがあの荘重な「海行かば」の大合唱へと変わって行ったそうである。「海ゆかば」の曲には、何か日本人の琴線に触れるものがあるに違いない。

 昭和18年12月1日が出陣学生たちの入隊日で、それぞれ陸海軍に入隊したが、該当者が大正12年11月末の誕生日までであり、同級生の半数以上が軍隊に入ったのに、紫蘭は僥倖にも13年の1月3日生まれだったので、わずか1ヶ月あまりの違いで入隊が一年遅れとなった。 あるいは、この1ヶ月の違いが生死を分けたのかも知れない、と思うと実に感慨深いものがある。

 
イメージ 2
                                        
                 (母校の烈士の碑の前の学徒出陣の同級生たち)

 学徒出陣でシランの同期生、70名のうち、3分の2が軍隊に入り、残るのはわずか20名あまりになった。よほど浪人組が多かったのだろう。 出陣前に親しかった文学仲間、四、五名が狭い学生寮の一室に集まって壮行会を開いた。飲みなれない酒で杯盤狼藉となり、みんな酔っぱらって寝込んでしまった。ふと、目を覚めて窓を開けえみると浩々と明るい半月の光がうたた寝の彼らを照らしていた。彼らにはそれぞれに深い思いがあったに違いない。その時、佐伯が「これを読んで呉れ」と、原稿用紙にぎっしり書いた現代詩の草稿を手渡して呉れたが、その詩集もいつの間にか散逸してしまい、今は当時の日記に書き写した僅か数編しか残っていない。

 イメージ 3 「断章三」    秋刀魚の連想   佐伯為雄

              男ありて鏡に向かひて
              哀しく髭を剃ると
              秋風よ心あらば伝えてよ
              そはいつの世の習ひなるか
              とはまほしく 哀し
              秋の夜よ

 
 
  イメージ 4翌、昭和19年、その「第二陣」として学徒出陣する自分たちは語部主幹の吉野教授とともに、クラス全員で京都の石清水八幡宮に武運長久祈願に出かけた。九月半ばの、蝉しぐれの激しい日だった。

 当時から作句に打ち込んでいた後年の俳人・赤尾兜子が私に一句ひねってくれた。

 蜩(ひぐらし)や 空蒼々と 君が眸(め)に   兜子
 
 ただ祖国に殉ぜんとして、なんら疑うことを知らぬ若者たちの眸は秋空のように澄みきっていたのに違いない。
 彼はこの句を覚えていなかったし、後年の彼の兜子句集にも載っていないが、このとき記念に撮った写真の裏に、彼のこの句が今も残っている。
   
              75年も昔の学徒出陣の遠い思い出として・・


                    ・・・・・                ・・・・・・

イメージ 8

                                                (秋の日差し)