(205) 「幹部候補生志願」

  このように、国民の義務であった徴兵検査で合格した者は初年兵として軍隊に入り、いじめられたり苦労しながらも、平時の場合は2年~3年間、現役兵として兵役に服すると満期除隊になり、帰郷して予備役の在郷軍人になる。こうして初年兵として入営した者の中で中学(旧制で5年制)以上の学歴を持つものは志願して幹部候補生を受けることができた。どうせ軍隊生活を送らねばならないのなら、兵隊よりも下士官、将校になる方が仕事も楽だし、恰好も良い。


 そこで有資格者はこぞって志願したのである。もちろん、中には志願しないで、早く郷里に帰りたい者もいる。然し志願しないでいると、反軍思想としてにらまれる恐れがあるので、彼らは一応試験を受けて、わざと試験に落ちるようにしたりした。

 イメージ 1幹部候補生の選抜試験は初年兵(二等兵)として6か月の第一期教育を受けたのちに、学科と実技の試験が行われる。この試験ではおよそ8割の者が合格したが、これは戦争の激化に伴い将校、下士官を急速に、大量に養成する必要があったからに違いない。

 合格した者には連隊ごとに5か月の集合教育が行われる。合格した者は階級章の星が一つ増えて、二等兵の一つ星から二つ星の一等兵に進級する。そして幹部候補生であることを示す徽章を付ける。
 この徽章は金属製の金色の丸い座金の上に星型の徽章が乗っている襟章で、当時は士官学校の座金なしの星の襟章に対して、幹部候補生の事を「座金組」と言って軍隊内部では暗黙の差別感があった。
 
  この徽章は上着の襟につける襟章で、候補生は常時この襟章を付けねばならない。軍隊内部では、それだけ士官学校出身者には職業軍人として、予備士官学校出身者に対して優越感があったのである。

 集合教育に入って2か月後には、また一つ星が増えて三つ星の上等兵になる。普通の兵隊が上等兵になるには、普通三年目なので相当早い昇進である。連隊での5か月間の集合教育が終わると、再び選抜試験が行われ、甲種幹部候補生(甲幹)と乙種幹部候補生(乙幹)とに分けられるが、その比率はほぼ半々であった。(*甲幹には大学、高専出身者が多かった)甲種、乙種ともに合格と共に下士官最下位の伍長に昇進し、甲幹は約4か月後に軍曹になる。軍曹の襟章は金線の上に星が二つ並んでいる。
  
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(今は愛知大学になっている

  そして甲幹は予備士官学校に入り、乙幹はそのまま出身中隊に戻って下士官になる。甲幹は予備士官学校で8か月間将校生徒としての訓練を受けて卒業し、見習士官から6か月後に少尉に任官する。 その教育科目は、将校としての精神教育はもちろん、軍事学、戦術、実兵指揮、射撃、武術、格闘技、馬術(歩兵にはない)、体操など将校になる資質の養成が主である。

 同じ将校でも陸軍士官学校は3年なのに予備士官学校が僅か8か月で済むのは、予備士の生徒は原隊で、兵隊としての6か月の基礎的な訓練を終えているので予備士では将校教育だけで済むからである。また陸士では国語、漢文、数学、外国語、地理、歴史などの一般教養の学課があるが、予備士の生徒は、これらは中学、高校、大学で既に学んでいるので将校としての軍事面の教育だけで済むのである。

 
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                                             (旧陸軍・軍制一覧)

 しかし、僅か8か月間でこれらの学課、実技を習得せねばならないのでその8か月間は明けても暮れても軍事訓練ばかりである。士官学校は半分は教室で勉強する時間があり、夏休みも冬休みみあり、肉体的にも精神的にも多少の息抜きになるが、予備士の8か月は日曜のほかは休みなしの丸々100%の軍事訓練なのである。そのため、予備士の昼夜の別なく気力と体力の極限まで続く厳しい鉄拳訓練は猛烈を極めた。それは教官たちも同じで、将校勤務の中で一番しんどくて負担が重いのは、予備士の教官だと言われたのも当然であろう。

 生徒は卒業と同時に曹長に昇進し、見習士官という称号を与えられる。見習士官になると、被服が官物であるだけで、軍刀、指揮刀、拳銃、双眼鏡などの武器のほか軍装品一式はみな私物になるので自費で購入せねばならない。シランの時は総額660円で、給料の約一年分にあたるから、士官になるのも楽じゃない。 但し、少尉任官時に400円の手当が出るのが救いでもあった。

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                                               (少尉任官時の購入軍装品一覧)
 

 イメージ 6*軍刀は鍛錬刀で200円だったが、新刀はナマクラだという噂があって、各自家で古刀を買い求めていたようだ。紫蘭も母が乏しい財布をはたいて、2千円で肥前忠吉の銘刀をシランの幼馴染の刀剣屋から買って、軍刀拵えにしていた。
 戦後の武装解除の時、ツバを外して中身だけ白鞘のまま県に美術品として提出したが、その後、とうとう戻って来なかった。進駐軍が戦利品としてアメリカに持ち帰ったのかもしれない。
                                                   (軍刀のつば) →

  数人の進駐軍の兵士が、我が家に立てかけていた日の丸の旗を「売ってくれ!」としつこく言ってきたこともある。 日本男児として、ガンとして拒否したのは勿論である。。

  見習士官は卒業後直ちに原隊に復帰して各隊の小隊長を命じられる。見習士官の期間は三か月で、それを過ぎるとようやく将校最下位の少尉に任官する。

イメージ 5昭和19年になると、益々戦況が悪化して本土防衛のために召集された補充兵も多くなり、急速に士官が必要となったため、新しく創設された「特別甲種幹部候補生・いわゆる特甲幹」という制度ができた。これは初年兵の6か月間の第一期訓練の期間を省いて、一般の連隊に入らずに直接予備士官学校に入校して予備将校になるという制度だった。

 紫蘭もその第一期生の試験を受けて合格して豊橋の予備士に入ったので原隊というものがない。だから卒業した同期生は、夫々見習士官として西日本各地の部隊に配属され、新米小隊長として様々な体験をした。中でも広島総軍麾下の部隊に配属された者の多くは、不運にも8月6日のヒロシマ原爆の被害に遭って、多くの被爆者が出た。運命のいたずらである。

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(黄落の秋)  佐賀県庁

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