②  肉弾・はしがき②
  
 大刀を腰にしたちょんまげ姿の江戸時代から僅か30年しか経っていない日本が、あの先進ヨーロッパの大国ロシアを破るという事は誠に驚くべきことであったが、この日露戦争は10年前の日清戦争の場合とは戦争の様相が一変していたのである。
 
    (フランス新聞の風刺絵)
     巨人・ロシアに挑戦する日本。 見守る欧米の誰もがロシアの勝利を信じていた。
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 日清戦争の場合、武器はまだ単発小銃であり、野戦砲もまだ速射砲ではなかった。日清戦争は19世紀後半の旧式装備の常備軍だけで戦われた世界最後の戦争だったのである。 
 しかし、10年後の日露戦争は違った。無煙火薬の発明が連発小銃と機関銃と速射砲を生み、歩兵、砲兵共に火力が激増した。そしてその火力による損害を防ぐために陣地が築かれ、陣地に拠った機関銃の威力は絶大なものとなった。
 
 そこで、これを潰すために野砲,山砲などの野戦砲では効力が小さいので、要塞砲である榴弾砲、臼砲が野戦重砲として使われ、迫撃砲も登場した。また陣地戦に有効な近接戦闘兵器として手榴弾が出現した。戦場は史上前例のない大兵力同士の激闘の場となった。 野戦は機動戦から陣地戦に転化し、正面突破は殆ど不可能となった。日露戦争では両軍、実に数十万の兵士たちの「肉挽き機」と化した世界最初の戦争だったのである。
 
 日清戦争の発端は明冶27年、朝鮮南部に起こった農民暴動「東学の乱」である。当時、朝鮮の宗主権を握っていた清国はこれの鎮圧のため出兵し、日本もまた軍隊を派遣して、日清両国が衝突して日清戦争が始まったのである。
  日清、日露の戦争の規模の違いは日本軍の兵力を見れば一目瞭然である。日清戦争の動員総数は24万人だが、実際の外征兵力は17万4千余人であり、兵卒の死者は1万2千余名、戦傷者3千5百、合計1万5千6百名であった。つまり戦死傷者は出征兵士の一割強だった。
 
 しかし、日露戦争で動員された日本陸軍軍人の総数は108万8996名で、動員数の87%の94万5394名が戦地に投入されていて、日清戦争のおよそ5倍強にも及ぶのである。
 そしてその兵力の大部分は現役兵ではなく召集兵に依存している。その召集兵の内訳はおおよそ現役帰休兵3万3千人、予備役20万人、後備役14万5千人、補充兵役46万余人であった。
 
 一方、兵員の損害は軍人の死者8万1千余人、負傷者2万6千余人、合計10万6千名余におよび、実に日清戦争の40倍に達したのである。この点からも日露戦争が日清戦争とは全くその様相が違っていたことがわかる。戦地勤務の兵卒84万余名のうち大部分は歩兵であり、戦闘による歩兵の死者は兵卒の十分の一の4万5千余名であったが、負傷者を加えると歩兵の戦闘による死傷者は実にその三分の一に達した。
 
 日露戦争中、最大の会戦である奉天大会戦では戦闘参与の戦力24万6千名のうち、6万8千余の死傷者を出した。日露戦争の日本軍の最大の損害率を軍単位で見てみると、奉天会戦の第三軍(司令官・乃木大将)の45、7%、旅順の第三次総攻撃の第三軍29,5%であり、のちに日本軍が壊滅的打撃を受けた第二次ノモンハン事件(昭和14年)の29,5%をはるかに上回っている。
 
 また師団単位で見てみると、奉天会戦の第九師団(金沢)の損害率68,3%は旅順第三回総攻撃で203高地の攻略に参加した第七師団(北海道・旭川)の55,6%を上回り、第二次ノモンハン事件でソ連軍の重囲に陥り文字通り壊滅的打撃を受けた第23師団(熊本)の70%に匹敵する。
 かくのごとく、死傷者の損害率でみる限り、日露戦争では野戦である奉天大会戦の方が要塞戦である旅順攻略戦よりもなお惨烈な状態だったことを示している。

 また、日露戦争ではナポレオン戦争以来の両軍の主力を投入した会戦によって一挙に勝敗を決するという古典的な戦争様式を過去のものとした。日露両軍の戦闘参加兵力36万人の11日間に亘る遼陽会戦、同じく43万名余の7日間にわたる沙河会戦、およそ67万名の24日間に及ぶ奉天会戦と、戦争様式は短時日の大規模会戦から、長期にわたる歩兵の大殺戮戦、兵力の大消耗戦へと変貌したのであった。
 
                                            つづく