(22) 「軍事教練」

  戦前の中学校では勤労奉仕の一方、教練が厳しかった。(もちろん、大学、高専も同じことだが・・)
 
                (校内での狭窄射撃訓練)
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 鉄砲担いで、オイチニ、オイチニの徒手訓練から実弾射撃や紅白に分かれての攻防戦まである。
 まだ少年の中学生とはいえ、もはや兵隊さんそっくりの、いわば陸軍の予備軍ともいえる猛訓練であった。
 
 
   
 
 
 
                      (教練査察、校庭での紅白模擬戦・突撃にすすめ!
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 教練といえば、元気いっぱいの梅チンこと梅井教官が懐かしい。
 当時は1年に一回教練査察があり、当日は校長以下の先生たちも師団本部からの査察官を迎えてピリピリしていた。
 2年生のころだったか、生徒一同が閲兵を受けるために整列していると12師団派遣の査察官が回ってきた。小隊長の[かしら~、右]の号令一下、みんな小銃を体の前に持ち上げて「捧げ銃」をし、頭を右に向けて査察官を注視して目迎目送をする。
       (捧げ銃(つつ)の敬礼)
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 ちょうど同級のH君の前まで来たとき、査察官が不意に立ち止まり、随行していた我が「梅チン先生」を振り返って、この先生は何という名前か?と尋ねると緊張したH君が思わず「ハイ!梅井伝閣下であります!」とやってしまった。
 
 「閣下」とは軍人では最高位の少将以上の将官を呼ぶ時の敬称である。
梅井先生は当時将校としては最下位の「准尉」だったのだ。
 
 閣下!と呼ばれた時の我が愛すべき「梅チン」先生の何ともいえない顔つきが忘れられない。梅チン閣下はその後応召し、大陸戦線で勇戦奮闘、勲功を立てられたそうである。
 
 一方のH君は元市長の息子で、長身のハンサムボーイだったが、どういう事情か生涯独身で、老人ケアハウスで先年一人淋しく亡くなった。
 
        「連合演習・最後の白兵戦」
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  一年に一度、市近郊の学校が集まって紅白両軍に分かれて連合演習がある。
民家に分宿しての一泊二日の実戦さながらの遭遇戦である。
 太平洋の波高き昭和15年、皇紀二千六百年の連合演習は何月だっただろうか。
 田んぼの稲刈りが済んでいるころだから、やはり晩秋には違いない。
 
  「小舟に乗って渡河訓練」
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 演習の途中に小さいクリークがある。我々はみんな鉄砲を持って飛び越したが、中西教官殿(トッカピンのあだ名あり)は何を思ったか持っていた竹竿をクリークの真ん中あたりに突き立てて、棒高跳びのように勢いよく飛び越そうとした。ところが竹竿が泥の中にブスッと抜かってしまってさぁ大変。。
 
 我がトッカピン殿は、両手両足を空に上げてお尻から水の中にザブーン・・。我々は笑いをこらえ、胸中には「ばんざーい」と唱えながら、救出活動に努めたのである。秋の朝の田んぼは霜がいっぱいで寒い。ぬれた軍服を乾かす焚き火の火が赤かった。
(と、言う話を聞いたことがあるが、こんな話果たしてホントだったかどうか。。)
 
  梅チン閣下や、トッカピン中尉殿。
 辛い教練の中でわずかに残る、楽しい思い出の先生
たちだった。