2022年2月8日だった。
2月10日に父の遺産相続の件で会うことになっていて、そのために遺産分割協議書を作っていた。たまたまメールを確認すると奥さんの明日香さんからのメールが目に留まり、珍しいので開くと「弘樹さんが今日急逝しました。」とあった。
さすがにびっくりして、今何をすべきか分からなかった。
明日香さんのメールによると、
>朝、自宅で倒れ、心肺停止で救急搬送されましたが、心臓の動きが戻らずそのまま息を引き取りました。医師の診断は、虚血性心疾患とのことでした。>
どうしようもない人。
この日も、面倒なことは全て私に押し付けて、親の遺産をただ貰うことだけを待っている彼にイライラしてきて、奥さんの明日香さんとの亀裂も、明日香さんの身になったら当然すぎると心の中でうそぶいていた。
今更兄の性格は変わらないし、私が兄に説教したからと言って兄は反発するだろうし、お互い不快になるだけでメリットがない、そう考えて今までそういう態度はとらないできた。兄ももう心を許せるのは身内である私しかいないこともあって、私にはしおらしく「悪いな」と気を遣うようになっていた。
でも今回は自分でも兄に対してイライラして、会った時にそれが態度に出てしまうかもしれないと考えていた。
兄の前の奥さんとの子供(大輔、結香兄弟)も父親に対して内心拒絶していて父の葬儀の時は私たち夫婦と食事しながら兄の悪口大会だった。
そんなどうしようもない人なのに。
なんだろうこの気持ちは。
子供の頃は、毎日のように暴力を振るわれていた。
悔しくて悔しくて、全力で抵抗し、闘ったがどうやっても力ではかなわなかった。毎日、動けなくなるまで殴られ、蹴られた。私はどんなに悔しくても、この痛みとその悔しさを相手に思い知らすことはできない。
私は思った。私にできることは“忘れない”ということだけだ。この痛みを、この悔しさを、一生忘れない。
大人になって、子供の頃のただの喧嘩の思い出にされるのは嫌だった。思い出なんかでは済まない、この兄の本性はこんな人間なんだという蔑みを、決して私は忘れない。
私は兄の本質を思い知っていた。
やたらに虚勢を張り、暴力を振るうのは、中身がないから、肉体的に生まれつき自分より弱いもの(女性)に対し暴力でしか自分を表現できない、くだらない人間だと思っていた。
晩年の数年間は殆ど働いていなかった。
中年過ぎまで勤めていた建築会社がバブル崩壊と同時に建築業界が様変わりし、それまでの談合などが一切通用しなくなってからは業績が下降し続け、営業をしていた兄の業績も比例し、会社倒産と時を同じくして退職してからは少し転々としていたがどれも続かず、失業給付以外ほどんどまともな収入はなかったようだ。
そんな彼の逃げ場所と言えばアルコールだけで、家族に隠れて自分の部屋で飲酒と強い煙草にまみれているうちに脳溢血で2年位前に倒れ、回復後も真面目にリハビリもしないから後遺症が残って障害者になった。
それでもそもそもがまだ幼い子供が2人いても、家族のために社会復帰して働こうという思考もなく、自分が不幸だという被害者意識しかないようだった。2度目の奥さんである明日香さんが働きだしたが明日香さんもいい加減切れて夫婦仲は当然最悪。話し出すととめどないほどどうしようもないことだらけだった。
もともと顔も性格も全く似ていなかったし、自分と血の繋がりがあるということが不思議なくらい別の種類の人間に見えた。
「俺は兄として、お前を愛してるよ」
晩年、奥さんにも愛想をつかされ、子供にも呆れられて家でも孤独にタバコのにおいにまみれた自分の部屋にこもるしかなかった中、電話でそんな言葉をテレもせずにぬけぬけと言える人だった。
たまに電話すると、
「お前の声が聴きたくてさ。」
そりゃ四面楚歌の家の中で、殆ど動かずに引きこもっているのだからそうなるだろう。
しかし兄と私が逆の立場だったらと考えるだけでぞっとする。
私が昔、病気で仕事を失い、挫折の繰り返しでいつも体調も悪くてどん底だったころ、母に言われたことは忘れない。
「兄ちゃんも、美奈江は大体甘いんだよって言ってたよ。」
そんなことを失意のどん底にいた私に、さらに地獄へ追いやるようにずけずけ言う母の無神経さと共に、忘れられない記憶となった。
そんな人なのに。
私だけが取り残されてしまった。
そんな人でもやっぱり、居て欲しかったんだということに、亡くなって初めて気づかされた。
子供の頃、さんざん私を痛めつけた肉親が、最後は骸骨のようになって亡くなっていく。
(もちろん、母は反面本音は非常に愛情深い人であり、私は母を愛してもいた)
それを何の動揺もなく、他人ごとのように見ている自分が不思議な感じだった。
父も母も兄も逝って、神は私に何を教えようとしているのか。
特に結婚前は、父も母も兄も、私のことは結婚もせずかと言って出世もせず、どうしようもない人間だと思っていた。
今天国で父と母と兄は、3人で笑って見ているだろうか、生き残った私のことを。
そして私が落ち込みながらも悪い方向へ行かないよう、見守ってくれているだろうか。
せめて彼らの写真を用意しおりんを買って、仏壇代わりに拝もう。