願望実現とは、結局のところ
叶っていないと思えば叶っていない
叶っていると思えば叶っている
(「ないと思えばない、あると思えばある」も同義)
それだけといっても過言ではないです
自分の判断・判定・認定次第だということです。
自分が叶っていると判断していれば叶っているので
叶っているかどうかの証拠は外側にはありません。
ここでいう「外側」とは、現実(現象)、環境、
他者の存在、他者からの判断・判定・認定などなど。
強いていうなら自分自身の存在が証拠です。
「『現象化していないけど叶っている』
という判断をしていれば大丈夫ですか?」
というご質問をたびたびいただきます。
ほとんどの方が「現象化=叶っている」
と定義されていると推測しますが、いわば
叶っていないけど叶っている
と判断しているということですよね。
それだとその矛盾が延々続くということです
また、「現象化を待つ」という状況は
「叶うのを待つ」と同義で、それが延々続きます
なので、弊ブログでは「現象化を待たないでください」
とたびたび言っているのです。
「叶っていない」なら「叶っていない」ので、
しょっちゅう、しつこいほど
「願望はすでに叶っている」のが大前提・真理だから
とにかく「叶っていない」と判断しなければいい
と書いていますが、やはりどうしても、
それが難しい、できないという声が圧倒的ですね
誰しもが「すでに叶えている」のにも関わらず
なぜ「叶っていない」と判断するのかというと、
「現実」「現象化の有無」を判断基準にしているからです。
現実に関係なく「◯◯な私」と想定してください
ブログ開設当初はよくこのように書いていましたが、
この「現実に関係なく」が難しいのですね
◯◯が手元にない、目の前にないから叶っていない
今の自分はどう見ても◯◯ではないから叶っていない
といったように、現実を見て「◯◯な私」を取り消す、
つまり「叶っていない」と判断してしまいます。
「『◯◯な私』を取り消しているつもりはないが、
どういうときにいつの間にか取り消されているのか」
という質問もたびたびいただきますが、
叶っていないと思うなら取り消している
と考えてよいでしょう。
エゴにとっては「現実」こそが「リアル」ですから
それも仕方がないっちゃないのですが……
でもそれではずっと「叶っていない」ままです。
だから、現実を判断基準にしないことが重要なのです。
それでも現実を判断基準にしたいなら、いっそのこと
視界に入る好ましいものは全部自分のもの、
好ましい人は自分だと思うのもいいかもしれません。
現実は大きな意識(=自分の本体)の(エゴを通した)投影
ですから、そのように捉えることもできます。
ただ、好ましくないもの、必要ないものも自分のもの、
好ましくない人も自分だということになりますが
そこは都合よく無視しましょう
でも、これをやってみたところで
「そんなことを思ったらただの頭がおかしい人じゃん」
「それじゃただのストーカーじゃん」
「それじゃただの現実逃避じゃん」
などと、エゴが強い抵抗を感じるかもしれませんね。
だから、イメージングやアファメーションと同じで、
楽しめなければ無理にやる必要はありませんよ
まとめますと:
願望を叶えたいのであれば、現実に関係なく
「叶っている」大前提・真理に従うか
現実を無視できないのなら
現実を見て「叶っている」と判断するか
現実を見ても「叶っていない」と判断しないか
どれかということになりますね。
私個人は「叶っている」真理の中に生きている
というだけで安心しますし、幸せを感じますね
(スージーのこまごま願望実現日記は
今回はお休みさせていただきます)
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いつもコメント、リブログありがとうございます
この場でいうのもなんですが、心の底から感謝申し上げます
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