別子八郎の父 朝比奈五郎位牌 勝楽寺で発見!! | 塩江つれづれ

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別子八郎の父 朝比奈五郎位牌 勝楽寺で発見!!

 「大蛇~別子八郎伝」著者の島上亘司氏より、今から440年前に甲斐国から讃岐国塩江内場城へ来た武田家の家臣で別子八郎の父朝比奈五郎の位牌を見た。と、興奮して電話があった。


 中山城山の書いた「全讃史」に、天正三年(1575)武田軍が長篠の戦いで敗れ、朝比奈五郎という武田家の家臣が、次男の伊豆八郎信能を伴って讃岐に逃れてきて、内場城主の藤澤新太夫重弘に保護され、重弘は娘を信能に嫁がせ所領の甲斐股を与え、信能は甲斐股城を築き、のち、内場城に移り藤澤八郎と称し、それから別子へ移り別子八郎と称し田猟をもって業としたとあります。


 この朝比奈五郎の位牌が、愛知県新城市の勝楽寺にあったという。彼は甲斐国の讃岐別子八郎伝説の会顧問高木氏に誘われ「長篠 設楽原決戦場まつり」に行き、その時に勝楽寺へ案内され位牌があることを知らされたという。


 実に、不思議なことである。讃岐塩江へ来ていた朝比奈五郎、恐らく讃岐で亡くなっていると考えられますが、実在の人物で間違いなく武田家の家臣であったこと、その朝比奈五郎の位牌に出会えたこと。
「大蛇」を書いた島上氏ならではの縁かも知れない。もしかしたら、別子八郎の位牌もあったのではないだろうか?
筆者も機会を見つけていつかぜひ訪問してみたいと思います。
 なお、後日連絡があり、朝比奈五郎は、駿河国志大郡(現在の静岡県藤枝市)出身ということがわかったそうです。

☆戦国の鎮魂 設楽原決戦場まつり
 日本で初めて鉄砲が大量に使われた、1575(天正3)年の長篠・設楽原の戦い。その設楽原古戦場を舞台に火縄銃の演武や小・中学生による武者行列、子ども武者による馬防柵演武などが行われ、当時の様子が再現されます。
 時間:9:00 15:30
 場所:設楽原歴史資料館・信玄塚・馬防柵など
 平成28年度は73日(日)に開催されました


☆勝楽寺
 勝楽寺は、1400年前後に松楽寺として開創されたといわれ、長篠の戦い後信長・家康が立ち寄り、松を勝に替えて勝楽寺としたと伝えられている。勝楽寺にはおびただしい数の武田軍の位牌が祀られている。また、徳川軍に参加した地元の川路城主・設楽氏の菩提寺でもある。

 その話を聞いて、いろいろ調べていたら、別子八郎伝説の会藤澤会長より先日提供頂いた「武田家の系図」があり、武田信玄の異母弟の武田上野介信顕が阿波国脇町の三好氏を頼り、のち脇城主となる。長宗我部元親に攻められ落城の際讃岐へ逃れる。そして東かがわ市の丹生野屋合戦で戦死し、町田の東昭寺に葬られている。
 
 その信顕の子信重が初代甲斐股城主となっていることがわかった。そして、その子孫が後に藤澤氏と改めている。
武田氏は阿波脇町から讃岐塩江へ来られ、現在でも塩江に武田家が数件あります。
塩江の藤澤氏は内場城主を祖先とする流れ、そして武田氏から藤澤氏への流れと、いろいろ面白くなってきました。

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東かがわ市町田の東昭寺へ、武田上野介信顕の墓を訪ねました。

  史跡 脇城主 武田上野介信顕公の墓

  甲斐の名門武田晴信(信玄)公の異母弟で弘治二年三月脇城主となり天正十年(一五八二)八月長宗我部四国攻略戦により脇城は落城し城主武田氏は丹生野屋合戦で戦死しこの地に葬る。又、美馬市脇町には郷社として城主父子を祭る脇人神社あり。

   昭和四十九年十二月 平成十七年十一月再建 徳島県脇町商工会

    恵命院仙室等庵居士

      承応四年乙未(一六五五)
      四月廿三日 (建立した日)
 
   從阿州脇城主武田上野守三代之
   後裔同姓太郎左衛門菩提之

東昭寺
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武田上野介信顕の墓
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