明治43年6月20日。

ばあちゃんが、生まれた日。


ばあちゃんは、

戦争を経験し、

大金持ちから、長屋暮らしの、チョー貧乏を経験した。


じいちゃんは、背のちっちゃい人で、戦争に出兵できず、ばあちゃんと、一緒に、

中国か、朝鮮かに渡ったらしい。


戦争が終わり、

日本に帰る時は、

女の子を下さいと、現地の人から言われたそうだ。


逃げて帰るとき、長女は、丸坊主にして、

男の子みたいにしたらしい。


荷物か、子供か、選択して、

日本に帰って来たそうだ。


船に、たくさん人が乗って、

逃げるとき、

荷物と間違えて、子供を捨てた人もいたらしい。


そんななか、

宮崎に帰るまで、


じいちゃんの実家に身を寄せたり、

ばあちゃんの実家に身を寄せたり、

厳しい生活のなか、

ばあちゃんは、宮崎の妹を頼って、

家族で宮崎に来たそうだ。


今は、青空市場とは言わない、

上町の長屋に、家族みんなで暮らしたけれど、

貧乏で、

家から美味しそうな匂いがすると、

ご近所さんが来て、

食べ物を分けていたそうだ。


ばあちゃんは、

お金を貸してと言われたら、

持ち物をお金に替えて、用意していたらしい。


返ってきたかは聞いていない。


その後、吉村町の貸家に家族で住んで、

そこから、

長男、長女と、結婚していなくなり、

私が生まれたときには、


母の妹がばあちゃん、じいちゃんと暮らしていた。


私は、すぐ裏の貸家に住んでいた。


ばあちゃんは、自分の子育てが終わると、

すぐ、

離婚した母の子供2人を育てることになる。


その子供は私と弟。


だから、私には、

産みの親、育ての親2名がいる。


貧しくても、何でも作ってくれたばあちゃん。


煮物、焼き物が定番。


私は小学校5年から、料理に参戦することになる。


買い物も、最初はばあちゃんと歩いて、行っていたけど、

後には、自転車で1人で行くようになった。


チラシを見て、安い買い物を何軒も店を回った。


貧乏だけど、幸せだったと思う。


不登校の私をしかりもせず、母に言いもせず、

私を育ててくれたばあちゃん。


元気にしてるかなぁ。


じいちゃんには、会えたかなぁ。


懐かしく思い出した、今日の私でした。