わたつみの園
寒さが残る鶴舞公園
3月下旬、市街地に佇む公園の広場には、桜の開花を待ちわびる人の姿が有った。敷地内のテニスコートでは、十数名程の男女が可憐なプレーに勤しむ。市民の憩いの場として、古くから人々に親しまれてきた。ここは昭和区の西に位置する鶴舞公園、名古屋市内屈指の桜の名所だ。
その日孝之(23)は、売店(茶屋)とテニスコートの間の通路から、辺りを見渡しながら公園に入った。ひっそりとした林の木漏れ日を抜けると、すぐにベンチでくつろぐスーツ姿の男性を見つけた。
「失礼します。貴方様は先ほど電話を頂いた、野々村康弘さんでいらっしゃいますか?」
離れた場所から声を掛けながら近づく。文書らしきものを手にしながら彼は頷く。男性のスーツの襟には向日葵の形を模った金色のバッチが光る。
「貴方は、村上孝之さんですね。お忙しいところお呼び出しして申し訳ありません」
すぐに懐から名刺を取り出して、手渡してくれるも、彼の名刺には野々村弁護士法律事務所とある。孝之は返事に窮する。
「弁護士の先生でしたか」……と遅れて孝之もすぐに名刺を差し出した。
遺産相続の話
3月29日午前10時、春だというのにその日は、ひんやりとした冷たい空気が漂っていた。遠くの方には数人の人だかりが見えた。
「早速ですが、少しご相談したい事が有りまして……」
野々村氏は、年恰好が35歳~40歳位に見える。程よく落ち着いていて気品さえも感じられた。孝之は大きく深呼吸をして辺りを見回した。都会のオアシスともいえるこの公園は、面積が24haと広大で公園内には名古屋市公会堂がある。
様々な樹木が植えられており、ここが名古屋市内であることを忘れてしまう程に静かで安らぎが感じられた。園内には池もあり、野鳥も生息していた。ご多分に漏れず、ここも凄い数の鳩がいる。
「それで、ご相談というのは……」孝之は、野々村氏の口からどんな言葉が飛び出すのか、興味津々だった。彼は肩に掛けたショルダーバックから、メモ用紙を取り出した。
「実はあの病院に、資産家の金城治夫さんという方が入院されていまして……」
指さす視線の先には、名古屋大学医学部付属病院が見える。
「あの病院に……ですか?」
野々村氏(弁護士)の話によれば、その金城治夫氏(72歳)という人物には子供は無く、妻にも2年前に先立たれ、彼自身も肺がんを患い余命幾ばくもないという。俗に言う処のよくあるケースである。
「彼の身に万が一の事が有れば、預金と不動産の時価総額合わせて、二十数億円が宙に浮きます。そうなれば、最も金城氏に近い近親者は、腹違いの弟妹という事になります」
「そうでしたか。それで、私に何かお手伝い出来ることが有るのですか?」
「ええ勿論です。むしろこちらから出向いてお願いするべきなのですが、何分忙しくて」
野々村弁護士によれば、自身は金城氏の顧問弁護士であると同時に、公正証書を介して契約を締結した任意代理人だという。
「じつは2年前に亡くなった金城氏の妻、久子様(享年65歳)には、資産のすべてを移譲する手続きに取り組んでいましたが、何の前触れもないまま、突然久子様が急死された事で、全て振り出しに戻りました。そこで腹違いの弟妹である杉下博美(62歳)と薮崎真一(60歳)の二人が、その事をきっかけに、にわかに金城氏に急接近し始めたのです」
「なるほど二人にとっては、願ってもない事態と言えますね」
「ええ、ですが……歳の離れた腹違いの弟妹と金城氏には、今までにほとんど交流は無く、資産を譲り渡すつもりは無い事を、彼は繰り返し言っています」
「でもそうなりますと、金城氏亡き後は、資産の行方はどうなりますか?」
野々村弁護士によれば、被相続人に直系の親族、(配偶者・両親・子・祖父母・孫等)がいない場合は、財産の全てが2親等である兄妹等に権利が移るという。
「金城氏は以前から、あの二人には警戒はしていた。でもここへ来て急に接近してきたのです。当然の権利だと彼らは考えているらしい」
勿論の事、一親等の血筋の者が誰もいない場合にだけ、相続人として認められるケースで、2親等の兄弟姉妹等には遺留分が無い。裁判で争う事になれば、弱い立場になる。
「金城氏には、遺言書は無いのですか?」
「残念ながら有りませんね。だからこそあなたにご連絡させていただいたのです。じつは彼には十数年前に生き別れた、愛人との間に生まれた男子がいます。金城氏はその男子に遺産を相続させたいと考えています。」
「なるほどそうでしたか。それで金城氏は、その男子を認知しているのですか?」
野々村氏は顔を横に振った。
「その事について、金城氏は今に至ってとても後悔しています。男子がまだ幼いころに、とても可愛がられていたそうです。成人するまでは交流していたようですが、でも愛人が他の資産家の男性とご結婚されたことにより、その男子とも次第に足が遠のき、今日に至っています」
通常遺産相続については、戸籍謄本を家庭裁判所に提出して親子関係が証明されれば、非嫡出子であっても相続権が発生する。(認知届が出されている事が条件)その場合2親等の兄妹等は権利が消滅する。
「その男子が今どうしているのか、所在がまったく分からなくて・・・」
「ではその男の子を探せとおっしゃるのですね」
「ええ、一刻も早く探し出して、役所に認知届を出さなければいけないのです」
「それだったら金城氏が、ご自身で区役所に行き、認知届を出せば済む事ではないですか?」
「そうは行きません。男子が成人している場合は、本人の承諾書が必要です。だから私としては、一刻も早く元愛人のご子息を見つけたいのです」
野々村氏によれば、元愛人の嫁ぎ先を訪ね、彼女から詳しい話を聞き出そうとしたが、男子とは音信不通で、詳細は分からないと言われた。住所だけは聞き出すことが出来たものの、何時訪ねても留守で、荷物は有るのに人の気配がしなかったという。
「つまり、消息が掴めないという事ですね」
野々村氏は頷いた。
「時間的に余裕が無いので、こうして貴方様にご連絡をさせて頂きました。是非ともご協力をお願いします」
「分かりました。私なんかで宜しければお力添えします」 と言ってはみたが、孝之には探し出せる確証は無かった。第一、いつ帰って来るか分からない人物を探すというのは、どれほどの時間を要するのか、想像も付かなかった。
村上孝之の生い立ち
村上孝之には、こんなエピソードが有る。
彼が小学生となる直前の日の事、入居する介護施設から、祖母が行方不明となったと連絡が入った。休日だったので息子夫婦は、幼い孝之を連れて直ぐに施設に駆け付けた。だが、職員が目を離したすきに、その事故は起きたと言うのだ。何処に姿消したのか、その時は心当たりが全くなかった。
まだ寒い時期だったので、施設のリビングには祖母がいつも愛用していた、ピンクのマフラーがソファーにそっと置かれて有った。
「あっ、おばあちゃんのマフラーが有る」とまだ幼さが残る孝之が駆け寄ってそのマフラーを掴んだ。その時は母有子が「触っちゃだめよ」と窘めたのだが・・・・と次の瞬間
「おばあちゃんは、じいちゃんのお墓のそばにいるよ」と孝之が言う。
その時手掛かりの全くなかった孝之の両親は、藁にもすがる思いで孝之が言うところの
村上家の墓に、とりあえず行く事にした。するとそこに呆然と立ち尽くす祖母が居た。
施設関係者の話によると祖母には軽い認知症が会ったと言う。
認知が不可欠
鶴舞公園前の道路は、時折乗り合いバスが公園前で止まる。タクシー等は頻繁に此処にやって来るが、車の通りとしてはそれ程多い訳ではない。二人の男性は素早く道路を横断して、名大病院の南側進入口から病院敷地内に入る。すぐ右手に郵便局(病院内)出入り口が有る。ここから院内に入れば、レストラン、喫茶店、自販機コーナーを経て、病棟エレベーターに行き付く。
表玄関から入るのは遠回りとなりお勧めではない。なお西側出入り口から、病院敷地内に侵入する場合はこの限りではない。売店等は別棟に大型コンビニエンスストアが有る。こちらは病院内売店という事から、お弁当の多さは目を見張るものが有る。コーナー一角がお弁当で埋まる。種類もそうだが、段積みされるなど、普通のコンビニとは明らかに様相が違う。
野々村弁護士は、孝之を金城氏に面会させるべく病棟に案内した。病棟エレベーターは6台が稼働していた。エレベーター前には先客が大勢いてごった返していた。少しすると左側中央の扉横の白いランプが点滅する。扉が開き乗降客が下りるのを待って乗り込む。やがてエレベーターは西病棟11階に到着。
○○号室の個室の扉を開けると金城氏はいた。傍らには、有限会社ホスピタルサービス・木村という名札を付けた女性が身の回りの世話をしている。その時彼は深い眠りに着いていた。
野々村弁護士は、介護の女性に労いの言葉を掛けると、窓際のカーテンを半分ほど開けた。眼下には、先ほど二人がいた公園が、手に取る様に一望できた。
「担当医の話では余命は半年ほどです。一刻も早く男子を見つけ、認知届を区役所に提出しなくてはいけない。それが私の使命なのです」
野々村弁護士は、振り返り孝之の目を見つめた。
「村上さん! あなたのお噂は良く存じ上げています。力を貸して頂けますね」
孝之は事の重大さを感じ取り、躊躇しながらも……
「分かりました。出来るだけの事はしてみます」 と言った。
野々村弁護士は、メモ用紙を孝之に手渡した。
「ここに金城氏の自宅住所と、例の男の子の住所と名前が書いてあります。後の事はお任せします。何かあったら名刺の連絡先に電話をください」 と言い残して二人はそこで別れた。
事務所創設のいきさつ
今から1年半程前、孝之は大学を卒業すると、自分に合う就職先が見つからなくて、悶々とした日々を送っていた。そこで、子供のころ母親と良く一所に行った、守山区小幡にある人生相談所を1人訪ねた。相談所と言っても、普通の民家に、ある山岳信仰のご本尊を祭壇に祭っただけの質素なものだった。ここに孝之の師匠ともいえる大迫しのぶが居る。
彼女は父親から受け継いだご本尊を、心の拠り所として家督を受け継いだ。相談者を手翳しと呼ばれる手法で、個人が発するオーラを読み解き、迷える人々にアドバイスをしていた。
その日もご多分に漏れず、数人の相談者が順番待ちをしていた。1時間ほど待つと孝之の番となった。
祭壇が祭られた部屋に入り、大迫しのぶの前に正座する。ほどなくして・・・・
「あなたは他人の持ち物から、残留思念を感じ取る能力が有るのだから、それを生かしたらどうなの」と大迫しのぶが言う。
その事をきっかけに、彼は名古屋市内に叔母から借りた、小さな事務所を立ち上げた。
3月30日(月)孝之は午前中は事務所に居て、野々村弁護士から手渡された、住所の書いてあるメモ書きに目を通した。
「遠山直之(32歳)住所が名古屋市守山区青山台・・・とあるだけか・・・・」
孝之は、パソコンのグーグルマップで検索を掛けた。すぐにイーオン守山店の文字が目に留まる。
「あら私、知っているわよ。ジャスコ守山店でしょう。2階建てのデパートで、屋上には駐車場が有るわ。表の駐車場から見て、右手に宝くじ売り場があり、左手にATMコーナーがあってね……いつも行っていたから分るの」
雑誌に目を通していた洋子が懐かしむように言った。
野田洋子との馴れ初め
洋子(23)と孝之(23)は大学時代の同級生である。彼女は大学卒業後、ある証券会社に就職したのだが、上司とうまが合わないという理由で退社していたところを、孝之に誘われ、探偵事務所のお手伝いをする様になった。
「それでね、私の従妹が守山のジャスコのすぐ傍に棲んでいたの、デパート裏手の別棟にペットショップがあり、そこで以前チワワを買ったことがあるわよ」
笹ヶ根から志段味近郊までは、近年道路整備が急速に進み、それに伴い新たに進出する店舗が増えて、目まぐるしく景観が変わる。
「メモに書いてある住所へ、遠山直之さんを訪ねて、今からでも行ってみようか」
「うん、行こう行こう」
子供のように洋子がはしゃぐ。やがて時計の針は午後1時を回ろうとしていた。事務所の扉に書置きをして、すぐさま車で移動する。金山から鶴舞までは中央線沿いの道路を走る。鶴舞駅交差点(変則5差路)を左折して国道19号線をひた走り、大曽根交差点(変則5差路)を斜め右に曲がり300メートルで北区矢田町交差点に到達。そこを斜め左に曲がれば、そこからは通称瀬戸街道。2キロほど走り、名鉄瀬戸線小幡駅のスクランブル交差点を左折すれば、志段味までは一本道となる。
途中龍泉寺の湯を過ぎると、道は緩やかな下り坂となり、左手に春日井市が見える。そこから少し行くとジャスコ守山店が右に見えた。
「あーっ、懐かしいな、従妹とよく来ていた。1階が食料品売り場でしょう。それから履物店とバック売場にフードコーナー、自転車売り場に衣料品と家電店………。2階がイーオンの衣料品売り場に、スポーツ用品店でしょう。ベビー用品売り場に書店が有るの。ねえ後で寄ってみない・・・」
「僕は初めて来たから、分からないけど、じゃあ後で寄ってみようか」
遠山直之氏の所在
洋子は無邪気にはしゃいだ。この辺りは一面が住宅街で、車の交通量は比較的多いほうだ。その半数ほどが、周辺の路地から出てきては、帰ってゆく車で充たす。やがて前方に東名高速の高架橋が見えた。
「高架橋の次の信号を右に曲がれば、少し行くと青山台住宅が有るはずよ」 と洋子が言う。『うん』と孝之は頷く。
「一緒に来てよかった……」
「えっ何が?」 と洋子は首を傾げる。
「洋子ちゃんと一緒で、よかったって言ったの」
「あっそう。私でも役に立つ事があるんだ」
「そりゃあるよ!」
やがて目的地の青山台住宅地が見えた。築35年以上が経過した建物は、随所に傷みが見られた。奥から2棟目の1階に遠山直之の住居を見つけた。ところが呼び鈴を押すも返事がない。あらかじめ想定はしていたものの、実際問題そうなると、落胆の色が隠せない。
「やっぱり留守か。どうしよう、無駄足になっちゃうよ」
「管理人さんに聞いてみようか」 と洋子が管理事務所を指さした。通路を隔てた向こうに、平屋造りの集会所を兼ねた管理棟が見える。裏側には3台ほどの車が止められている。
孝之は正面玄関に回り扉を開けて、中にいた男性に声を掛けた。
「すみませんが、管理人さんはお見えですか?」
小柄な中年男性は、すぐに振り向いた。
「管理人なら私ですが、なにかご用ですか?」
滲み出るような笑顔の奥に、温かさと優しさが感じられた。孝之は名刺を差し出した。
「親族の方からの依頼で、2棟○○号室の遠山直之さんにお会いしたくて、此処に来たのですがあいにくお留守の様なので、少しお話をお伺いしたくて・・・」
「ああ、遠山直之さんですね。詳しい事は分かりませんが、ボランティアとかで、ほとんど家にはいらっしゃらないですよ」
「えっ、ボランティアですか??」
“何のために?”ふと疑問が脳裏を掠めた。
「遠山直之さんは、以前はお母様と二人で住んでいらしたけどね、もう10年位になりますかねえ・・・お母様はとても美しい方でして、男が放っておかないのでしょうね。子持ちの資産家の男性と知り合うと、すぐに結婚して家を出て行かれました」
「えっ、じゃあ遠山直行さんは、ずっと一人暮らしをされているのですか?」
「ええ、母親が家を出て行ったことが、よほどショックだったのでしょうね、ここ最近になってから、それまで勤めていた会社を辞めてしまって、どこかの宗教団体に入信したとか聞きましたよ」
「しゅ……宗教団体?……ですか?」
「ええっ、詳しい事は知りませんが、行ったきりで帰ってこないのです」
「何のために? 住み込みですか?」
「ええ、だと思いますよ。2~3か月に1度位しかこちらに来ないですからねえ」
孝之は思わず顎に手を添えた。調査は困難を極めることが、容易に想像できた。「うーん……」とうなり声をあげて洋子を見つめた。洋子は困った表情を浮かべた。管理人からは、それ以上の話は聞けないと判断した。そこで洋子は……
「失礼ですが、家賃のほうはどうなっているのですか?」
「ああ、その件は問題ないですよ」
管理人は奥の部屋に入ると、2人を手招きした。
「ちょっと待ってくださいね」
机の上のパソコンの電源を入れて、何かを閲覧しているかに見えた。
「ほら、お母様の口座から、ちゃんと入金されていますよ。だから心配はしていません。ただ長期間留守になっていると、やはり防犯上いろいろと問題がありますからね、こちらとしても注意して監視する必要が有ります。訪ねてこられる方もいらっしゃるしね」
管理人は、2人を改めて見つめた。
「私から説明出来ることは、これ位しかありませんので」と言った。
すぐさま洋子は孝之の目をじっと見つめた。そして……
「孝ちゃん、あれを調べたらどうかしら?」と手をかざして見せた。
「あっ、そうだ大切なことを忘れていた」と振り向いた。すでに管理人はやり残しの仕事に取り掛かっていた。
「あのぉ……」
「はい、まだ何か?」
「彼の部屋の中を見せていただきたいのですが……」
管理人はピクリと肩を揺らした。
「駄目です。それは出来ません!」
管理人の男は少し躊躇したが・・・・
「そういえば貴方は、先ほど親族の方からの依頼で来た。とおっしゃいましたね」
「ええ、それが何か?」
「もしかして、お母様から依頼されたのですか?」
孝之は顔を横に振った。
「そうでしたか。それでしたらお見せする訳にはいきません。お帰りください」
管理人はキッパリと言い放った。
「待ってくださいよ。これはお父様からの依頼ですよ」
管理人の男は足を止めた。
「ほう、直之さんにはお父様がいらっしゃるのですか? それは初耳ですね」
孝之は、少しためらったが……
「とは言っても、お父様の籍に入っている訳でもないので……」
「それでも血縁関係が明白なら、何も問題ありませんよ、それを早く言ってくださいよ。
お父様はご存命でしたか」
「ええ、でも……」
孝之は小首をかしげて見せた。すぐに管理人は状況を感じ取った。
「ああっ、そうでしたか、どうやら体調が思わしくないようですね。宜しければお話をお聞かせ戴けませんか」
「ええ、じつは遠山直之さんのお父様は金城治夫様と言います。この方には以前本妻がいたのですが、2年前にご病気で亡くされ、しかも2人の間には子供が無く、彼自身も肺がんを患っていて、担当の医師から余命半年程と宣告されています」
管理人の男性は、聞き耳をたてていたが、何となく話の内容が理解できた。
「つまり直之さんのお母様は、その金城氏という方のお妾(めかけ)さんでいらした訳ですね。それで直之さんに面倒をみろと・・・・」
「平たく言えばそういう事になります。これは私の口から言うのは何なのですが、金城氏にはそれ相応の資産があります。ですから遠山直之さんにしてみたら、悪くない話だと思いますよ」
「ほう、資産ですか、降って湧いた様な話ですね……」
管理人の男はその場に有った椅子に、ドッカリと座り込んだ。
残されていたゲーム機
「それはそうと、お部屋のほうはお見せ願えますか?」
「おっと、肝心なことを忘れていた。では早速ご案内しましょう」
すぐに2人を案内する。管理棟からほど近い、2棟1階の真ん中辺りに直之氏の部屋があった。管理人が『ガチャリ』と鍵を開ける。玄関は畳半畳ほどの広さで、履物が隅っこに置いてある。
「どうぞお入り下さい。荷物にはくれぐれも触れないようにお願いしますね」
管理人が2人を率いて部屋に入る。2つある部屋の片方は室内が空っぽで、表側の部屋には荷物が整然と置かれ、独身者とは感じられない程に片付けられている。
その時洋子が、座卓にポツンと置かれた昔懐かしいゲーム機を見つけた。
「あ、これゲームボーイアドバンスだわね、まだ持っている人がいるのだ」
テーブルの上に置かれたゲーム機は真新しく思えて、それが大切に扱われていた様が見て取れた。
「おお、これはいけるんじゃない、洋子ちゃん」
「うん、でもこれ、触っちゃいけないんでしょ……」
2人は管理人の顔を見つめた。
「触っていいですよ。どうぞ」と管理人がいった。
孝之は辺りを見回すも、テレビや壁掛け時計など、本人が常に身に着けていそうな物が他に見当たらない。
「では失礼して……」
孝之はテーブルの正面に座り、ゲーム機を両掌で覆い静かにリーディングを始めた。他二人も孝之の両サイドに座る。静かに時が進む。窓から暖かな日差しが注いだ。すぐ横の高速道路から、走る車の音が僅かだが聞えて来る。数分間静寂の時が流れる。
孝之がゆっくりと手を下す。
「分かりました。このゲーム機は彼が幼い頃に、お父様から買ってもらった物に間違いありません」
「で、何か分かった事はあるの? 彼は今何処にいるのよ?」と洋子が言った。
「詳しいことは分からないけど、彼は悲しみを訴えています。お父様の事もお母様の事も、一緒にいたいと考えています」
「うん、その気持ちは良くわかります」と管理人は頷いた。しかし、洋子が知りたいのは遠山直之氏の行方だ。
「彼の居場所とかは分からないの?」
「うん、それが複数人の影らしきものが脳裏に浮かぶけど、それが何なのか、それ以上は分からない」
「それはつまり、直之さんの動向に、複数の人が絡んでいるってことかなあ」と洋子が言う。
「多分そうだと思う・・・・そうだこのゲーム機お借りできませんか。僕の師匠に見てもらえば、きっと何か分かるはずだから、お願いします。2~3日でいいので・・・」
「うん、そうですね・・・・まあいいでしょう。特別ですよ。持って行ってください」
管理人はキッパリと言い放った。孝之と洋子の二人は深々と頭を下げて、お礼の言葉を伝え、急ぎ足でその場を後にした。
直之を取り巻く環境
3月31日午後、孝之は事務所を洋子に託して一人大迫しのぶを訪ねた。春とは言え、山々はまだ枯れ木が多くて、桜のつぼみが僅かに見られる状況だ。道すがら、様々な思いが脳裏をかすめる。自分を信じて着いて来てくれる洋子がいる事に、責任の重さを改めて感じた。
大迫しのぶ相談所に来ると、面談者と思しき車が2台有るだけだった。
「やった、ジャストタイミング」
車を駐車場出入り口のそばに止めて、中に入る。途中面談を終えた相談者が、満足そうに帰って行く姿が有った。本堂までやって来て、入口の戸を開けると、面談室から出てきた師匠と偶然鉢合わせた。
「いらっしゃい孝ちゃん久しぶりね。元気だった?」
大迫忍が嬉しそうに答える。孝之はお辞儀をした。
「実は相談したいことが有りまして……」
「そうね、多分そうだと思った。でなきゃ来ないものね」
孝之は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「こんな時しか来なくて、申し訳ありません」
「あら、そんな事はいいのよ。早く座りなさい」
最後の相談者が、待合室に置いてある手荷物を手にして、ゆっくりと出て行くのが見える。
「それで、今日はどんな相談?」
孝之は、少し躊躇した。申し訳ない気持ちで一杯だ。
「いつもすいません」
「あら、気にかけなくていいのよ。貴方は私の弟子なのだから。それより早く相談内容を話してちょうだい」
「はい、実はこれなのですが……」
孝之はハンカチで包んだゲーム機を取り出した。
「このゲーム機の持ち主の足取りが分からなくて」
「分かったわ、では机の真ん中に置いてね」
大迫しのぶは合掌をして、暫く目を閉じた。やがて右掌をゲーム機の上に差し出して、入念に左から右へと、翳した手を移動する。これを数回繰り返した。この間、時間にして十数分、長い沈黙の後、やがて静かにその手を下した。
「持ち主の方は男性で、32~3歳かしら、親の縁が薄いような気がする。恋人もしくは憧れの女性かしら、若い女性の姿が浮かぶわ」
「もしかして、その女性と一緒にいるのですか?」と孝之が言った。大迫忍はキッパリと否定した。
「そうじゃないわ、他にも大勢の人の姿が見える。・・・・京都かしらここ」
大迫忍は眼を閉じたまま、しきりに何かを思い描いていた。
「みんな白い服を着ているのよ。宗教団体かしら高齢の男女がいつも傍にいるのね、だから身動き取れないのよ、彼・・・・・」
孝之は確信した。管理人の男が話した内容とも一致する。(だとしたら遠山直之は京都の宗教団体にいるという事か?)
「その宗教団体の名称とかは、分らないのですか?」
「わたつみの園(わたつみのその)・・・・そんな名称かしら、看板が見える」
大迫しのぶはグーグルマップを開いて説明した。そこは京都市左京区北白川山……。比叡山の南側に位置する。
「さすが師匠。そんな所まで分かるなんて……でも京都って??」
大迫忍は微笑んで見せた。
「どんな事情か知らないけど……でどうするの?これから」
孝之は悩んだ様子だ。
「やみくもに訪ねても、2度手間になるといけないし、とりあえず事務所に帰ってから電話番号を調べて連絡してみます」
「そうね、そのほうがいいわね。いかなくて済むかもしれないし」
孝之は師匠である大迫忍に礼を言うと、急ぎ足で事務所に引き返した。
ある宗教団体?の全容
4月1日午前10時、孝之はネットで“わたつみの園”について調べていた。画像が多く使われたホームページは、それが神道系の宗教団体を思わせるもので、いわゆる道徳を重んじる教えと捉えることが出来る。いい行いを施せば徳となって帰るのを主体とした教えである。孝之がネット上に有った電話番号に電話をしてみると、ボランティア活動でみんな出払っている為、取次が出来ないと伝えられた。
「孝ちゃん。私どうしても納得できない事があるの」
隣でパソコンの表示を見ていた洋子が頭を傾げている。
「直之氏の行動だろう」
「うん……」
青山台住宅の、管理人の話した母親の急な結婚が、直之氏の行動に何らかの影響を与えたのではないか、と孝之は考えた。
「つまり……彼が何故急に宗教の道に進んだのか? なんで京都なのかって事だよね」
「彼はこの宗教に、元々入っていたのかしら?」
「何とも言えないけど、母親の突然の結婚が少なからず影響していると思うよ」
孝之は事務所の窓から、遠くの景色に目をやった。街が心なしか霞んで見えた。この処の天気予報でも、季節風に運ばれて飛んでくる黄砂と、花粉情報が賑わいを見せていた。ふと孝之は、有る事を思い出した。
「そういえば師匠が気になる事を言っていた。今思い出したよ」
「えっ、なになに?」
「わたつみの園のボランティアで、直之氏が高齢の男女に監視されているみたいな・・・・」
「なによ、それ?」
「確かに師匠がそう言ったんだよ」
「あっそうなの??」
そこで孝之はある大胆な仮説を考えた。
「つまり、高齢の男女を、杉下博美と薮崎真一の二人と考えたらどうだろうか」
「なるほどね、つまり直之さんと金城氏を会わせないようにしている訳ね」
「直之さんの認知届が出されていないことを、あの二人が知っていたとしたら、当然妨害するはずだからね、承諾書を直之さんに書かせないためにも・・・・」
非嫡出子が成人している場合、認知届に本人の承諾書が必要であることから、叔父と叔母が妨害行為に及ぶことは容易に想像できた。
「それで金城氏の全資産が手に入るなら、彼らにとっては容易いことね」
「うん・・・・」
金城氏の容態を考えると、そんなにのんびりと構えている訳にはいかない。事態は急を要する。孝之は昼頃に、再びわたつみの園に電話をするのだが、本人に連絡が取れないという理由で、取り次いで貰えなかった。
「どうしよう、洋子ちゃん」
「こうしていても、事態は進展しないよ」
二人が手を拱いていると、野々村康弘氏から電話が入った。
「はい、村上探偵事務所・・・あっ野々村さんですね、はい・・・えっ!そうなのですか! 分かりました。急ぎます。はい、はいどうも」
「えっ、何なの今の電話」
「金城氏が肺炎を併発して、危険な状態らしい! 」
「嘘でしょう! どうするのよ? 」
「承諾書を区役所で貰って、今から京都へ行く」
「嘘でしょう、そんな。……ちょっと待って、私も一緒に行くから」
着の身着のまま二人は事務所を飛び出した。事務所からほど近い、金山駅に向かい名古屋駅を目指した。そこから10時55分発大阪行きの新幹線(のぞみ)で京都に向かった。11時半京都着。地下鉄烏丸線(ちかてつからすません)に乗り換えて、今出川駅に到着したのが11時50分。そこから二人は左京区北白川方面にタクシーで向かう。
わたつみの園に着いたのが12時半。ここは比叡山の南西に位置する、山間で広い敷地に真新しい3階建ての建物がある。門のところから中に入るとちょっとした庭園があり、正面に玄関がある。ガラス張りの門戸の自動ドアが開くと、受付の窓口が左にあった。
「こんにちは!」と孝之が声を掛けるが応答はない。
「誰も居ないの?? 」
「うん、誰も居ないみたいだね」
二人は辺りを見渡すが、人影が全くない。
「何で人が居ないのよ! おかしいよ! 」
(そういえばここの敷地に入ってから、まだ誰にも会っていない。何かがおかしい? こんなに大きな建物なのに、誰も居ないなんて絶対におかしい。何なのだ、ここは??)
孝之は再三辺りを見回すも、人の気配が全くしない。
「何なの、ここ? 気味悪いよ……孝ちゃん気を付けて」
その時、ふとした事から洋子が机の上の呼び出しボタンを見つけた。
「ちょっと待って! 呼び出しボタンが有るよ。御用がある方はボタンでお知らせください。だって」
「なんだ、そうか、早く言ってよ……そうなのだ」
孝之が押しボタンを押すと、すぐに奥から若い女性が飛び出してきた。
「はーい、いらっしゃいませ! ごめんなさいね、席を空けていまして」
孝之はすぐに深々とお辞儀をした。
「こんにちは。遠山直之さんにお会いしたくて、名古屋から来たのですが……」
クリーム色の綿パンと、白のポロシャツにカーディガンを羽織った女性は、モップを片手に早足でやって来た。
「遠くからお越し頂き、有難うございます。せっかくなのですが、直之さんは3時にならなければ帰って来ませんので、今の時間帯はボランティア活動中だから」
「あっ、そうでしたか、分かりました」と孝之は言って、洋子の目を見つめた。
「3時って、まだ2時間あるわね、どうしよう? 」
二人が困った表情を浮かべると……
「こちらでお待ち頂いても構いませんよ」と応接室に案内された。
8畳ほどの応接室は、壁時計以外は何もなく、真ん中に対面式のソファーが置かれている。二人はソファーに座っては見るものの、落ち着かなくて、応接室から外に出た。ガラス張りのロビーはすこぶる視界が良くて、京都の町が一望出来た。二人が関心をしていると、背後から男性の声がする。
「ようこそ、お越しくださいまして有難うございます」
振り向くと黒っぽいスーツ姿の男性が深々と頭を下げている。
「私は、理事長の桂川と申します。遠山直之さんのご親族の方ですね。よろしければお話をお伺いしましょうか」とロビーの窓際に置かれたテーブルに、座るように促された。
テーブルは全部で3つ。その中の真ん中のテーブルに着いた。
「ごめんなさいね。今は遠山直之さんを含めて、職員全員がボランティア活動で出払っていて、ここには誰も居なくて、3時になれば皆帰ってきますので、少々お待ち頂けますか」
「そうですか。ではまだ1時間半ほどかかりますね」
孝之が窓の外を眺めて、うつろな表情を浮かべると・・・・
「何か急用でもございましたでしょうか? 何なら直に帰るように連絡しますが」
すぐに面会出来るのなら、それに越した事はない。だが仕事の途中で帰らせる事には、孝之は抵抗が有った。
「実は、直之さんのお父様が入院中で、病状が思わしくなくて・・・」
「それは大変ですね。直に帰るよう電話します! 」
桂川と名乗る男性の応対に、孝之は安堵したその時、携帯の着信音がした。
「ちょっと待ってください。僕の携帯が鳴っています」
孝之は携帯のタッチボタンを押して建物の外に飛び出した。短い会話の後、直ぐに帰ってきた。洋子が心配そうに声を掛けた。
「電話、野々村さんからだよね」
「うん、金城氏の体調は持ち直したようです」
「それは良かったですね。じゃあ直之さんの件は保留という事で、それでは時間まで、この施設についてご説明しましょう」
桂川氏は一旦席を外し、すぐにパンフレットを手にして帰ってきた。
「この施設はNPO法人で届け出されており、主な活動はボランティアで、各障害者施設や老人ホーム等に、職員を派遣しています。他にも被災地への義援金の為、街頭での募金活動などもする事があります。ここを運営しているのは大手介護用品製造会社でして、他にも協力会社二十数社からの助成金等で成り立っているのです。職員は全部で32名います」
孝之は説明を聞きながら、腑に落ちない点を問うことにした。
「間違っていたらごめんなさいね。ここは宗教団体ではないのですか? 」
「そうですね、とくに宗教団体という訳でもないのですが、宗教は人材育成として取り入れております。日本の伝統文化としての神道は、日本人の精神そのものと考えています。人との関わりや、思いやりの精神無くして介護はあり得ませんからね」
「なるほど考え方が斬新ですね」
「うん、ところであなた達は名古屋からお越しですか? 」
「そうです」
「名古屋からは4名ほどこの施設に来ています。遠山直之さんと薮崎真一さん。それと杉下博美さんもそうです。それから私も実は名古屋の出身なのです」
言われて孝之は“ハッ”とした。
「そうでしたか。ところで薮崎真一さんと杉下博美さんもここの職員なのですか? 」
「ええ、私たちの大切な仲間です。お知り合いですかお二人と? 」
「いえ、知り合いという訳ではないのですが……」
薮崎真一と杉下博美の件は、あらかじめ想定していたものの、実際に聞かされると戸惑いを隠せない。孝之が困った表情を浮かべると、視線を合わすようにして洋子が首を傾げて見せた。桂川氏は二人のその仕草に戸惑いを感じながらも、更にその先へと話を続けた。
「三人とも、とてもお優しい方たちですよ。特に杉下博美さんはボランティア活動に深い理解を示されて、派遣先からの評価もとても高いです」
「本当ですか、その話……」
「ええそうですよ。とても物腰が柔らかくて尊敬できます」
「そうなのだ……」
瞬間洋子は、自分たちの考えが過ちではないかと、ふと考えた。
「ねえ孝ちゃん。私たち何か勘違いしていたかも」
孝之は洋子のその言葉に心が揺らぐ。
(確かに・・・自分たちは今まで人伝に聞いた話を鵜呑みにしていた・・・だからと言って野々村弁護士が嘘を言っているとも思えない。ここはじっくり確かめる必要が有る・・・)
「ご自分の目で確かめられたらどうですか? もう直ぐ皆帰って来ますから」
「そうですね。分かりました」
その後桂川氏は2人の為に、施設の案内をした。彼の説明によれば、この施設は会社の研修施設を兼ねていて、3階部分は主に会社側が使用し、1階2階がNPO法人という扱いになっているらしい。なお単身者用宿舎が隣接する敷地に用意されている。
施設内を一巡して、ボランティア活動からみんなが帰ってくるのをまった。すでに時刻は午後2時50分を指していた。
入信?の経緯
午後3時10分 白い作業着の集団がゾロゾロと帰ってくる。派遣先によっては、多少帰社の時間が異なるらしい。孝之にとっては、彼ら3人との面識がない事が少し気に掛かる。その時、帰って来た職員はそのまま2階へと階段を上がっていった。
「3時半からは2階に有る拝殿で簡単な神事があり、その後業務報告と反省会で1日が終了します」と桂川氏が説明した。彼はその後、最初に応対してくれた女性を呼んで何かを伝えた。すると・・・
「遠山直之さんを呼んでまいりますので、面談室と表示してあるお部屋でお待ち下さい」その女性が二人に伝えた。そこで孝之達2人は面談室と書かれた部屋に入る。4畳半ほど
の部屋には机と椅子4個が並べられていた。孝之にとって直之とは初対面で、話す内容をあれこれと思いあぐねた。
『コンコン』 とその時、ドアをノックする音がする。『ガチャ』とドアが開いた。
「遠山直之さんをお連れしました」
小柄で痩せぎしで長髪の男性が、ぺこりと頭を下げて立っている。
「ではごゆっくりとどうぞ……」受付の女性はそう告げると、そそくさと立ち去って行った。
あわてて孝之は立ち上がって挨拶をした。
「私たちは今日、金城治夫様の代理人の依頼で、直之さんに大切な用件を伝える為に、ここに来ました」
「僕に伝えたい事ですか? 」と直之の表情が強張る。
「申し遅れました。私は探偵事務所を運営している村上孝之と申します。でこちらは助手の野田洋子」
二人は軽く会釈して、名刺を渡した。
「直之さんのお父様は、金城治夫様で間違いないですね」
「ええ、それが何か……」
直之は訝(いぶか)るような表情を浮かべたが、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「実は金城氏は肺がんを患っていて、治療中なのですが、余命半年程と医師から宣告されています」
「えっ、そうなのですか! 」
遠山直之氏の初対面の印象は、生真面目そうな静かで落ち着いた人物に思えた。孝之にとっては話し易さが感じられた。
「金城氏にとっては、直之さんはたった一人の、かけがえのないご子息でして、最近になって、区役所に認知届を出していない事にお気づきになられて、それで手続き上必要な承諾書を、私たちは直之さんに記入していただきたくお持ちしました」
一瞬、直之が眉を顰める。
「待って下さい。それは遺産相続する事を前提とした話ですか? 」
「平たく言えばそういうことになります」
直之は顔を横に大きく振った。
「私は遺産相続する気はありません。幼い頃、私は父にとても可愛がられていました。その事は感謝しています。父の事は大好きでしたし、尊敬もしています。でも・・・」
直之はわだかまりの念を、払拭し切れずにいた。
「でもあなたが相続しなければ、金城氏の遺産は薮崎真一氏と杉下博美氏の手に渡りますよ。それでもいいのですか? 」
「それでも構いません。私たちは3人で同盟を結んだのです」
「えっ、同盟……ですか?? 何ですかそれ? 」
「ええ、父の財産は、とても“綺麗なお金”とは言えるものではありません。金貸しと不動産売買で儲けたお金であって、言わば恨みのこもったお金なのです。叔父(薮下真一)も叔母(杉下博美)も、その事を心苦しく思っています。誰が相続したとしても、その資産は全額このNPO法人、わたつみの園に寄付する事で合意しています」
「えっ、そんな、もったいないじゃないですか」
洋子は孝之から、金城氏の資産について知らされていたが、それでも彼は・・・
「他人の不幸の上に、個人の幸福なんてあり得ません。叔父も叔母も私も、ここで教わった“神意”(神の御心)を、実践を通して確信し、心の拠り所としています。そういう事なので・・・」
「普通の人なら、一生かかっても手に出来ないお金ですよ」
孝之は懸命に説得するが、彼の気持ちは揺るがない。
「その事は十分承知しています。でも必要とされる所で使われてこそ、お金の価値が生かされます。きっと父も許してくれると思うから・・・」
「では承諾書の記入は出来ないとおっしゃるのですね」
直之は、右指先を唇に添えて、爪を噛みしめ宙を仰いだ……
「でも父がそれを望んでいるのなら、落胆させる事は私の本意ではないので、承諾書にサインしましょう。それで貴方がたも面目が立つでしょう」
直之は心の奥で、何かしら、気持ちの整理をつけたかに見えた。孝之は持って来た承諾書の用紙をテーブルの上に差し出した。彼はその用紙をじっと見つめていたが、気持ちの区切りがついた様で、ペンを手に持つと一揆に書き上げて朱印も押された。
「有難うございます。正直、書いて貰えないかと思いました。でもこれで(任意代理人)野々村弁護士との約束も、果たす事が出来ました」
「そうですか。それは良かったですね」
予想外の展開になったことで、野々村氏への説明責任を孝之は払拭出来ない。なによりも、記載された承諾書が手元に有る事に彼は安堵した。
「これは余談になるのですが、もしかして直之さんには、婚約者がおみえですか?」
突然直之の顔が薄紅色に染まる。
「なんでそれを? 誰から聞いたのですか? 」
「否定なさらないと言う事は、図星という事ですね」
「この事は、まだ誰にも話していないのですが・・・」と直之は前置きをした上で、次の様に話した。
「私がこの施設に入所した経緯を少しお話します。実は叔父と叔母から誘われた事に起因します。当時名古屋市守山区にここの施設の出先機関があり、叔父と叔母はそこの職員でした。私は一緒に暮らしていた母親が、ある資産家の男性と結婚して家を出た事で、一人寂しく暮らしていました。その事を憐れんで、叔父と叔母から一緒に働かないかと、誘いがありました」
「でも直之さんは、当時、確か地元の企業にお勤めでしたよね」
「ええ、何でその事を、知っているのですか?」
直之は、何でその事を知っているのか、訝るような表情を浮かべた。
「ああその件については、守山区の青山台住宅で、管理人さんからお聞きしたので・・・」
「なるほど、そうでしたか……わたつみの園については、経費の無駄を省くためと言う理由で、守山区の支所が廃止になり、叔父と叔母は京都本部に転勤になったのです。その後叔父と叔母からある日、わたつみの園で、職員を募集しているから来ないか。と連絡を貰い、それまで勤めていた会社を辞め、京都に行く事を決めたのです。その時地元採用の早川朋美という27歳の女性と、偶然入所時期が重なり仲良くなったのです。」
「そうでしたか……でも将来的には、その女性とご結婚されるのでしょう? 」
「勿論、結婚前提でお付き合いしています」
孝之は感慨深そうに、「うんうん」と頷く。
「ではもう名古屋には帰らないと言う事ですか?」
「そうですね。天職とでも言うべく仕事に巡り合えたので、ここに骨を埋める覚悟でいます。でも父の病状が思わしくないと言う事なので、暫くは青山台の住居は解約せずに、時々帰るつもりでいます」
「直之さんは、とてもお優しい方ですね。今日出会えて私、とても嬉しく思いました」 と静かに洋子がささやいた。
「僕も同感、本当にそう思う。ところでわたつみの園とは、ちょっと変わった名称ですね」
「ええ、“わたつみ”と言うのは、古くより伝えられた、海をつかさどる神です」
「海の神、ですか?? 」
「この施設を運営している大手介護用品会社の、初代創設者、高村幸三氏は、生まれは和歌山県の田舎町とお聞きしています。ご存じのように、和歌山県は紀伊半島の先端に位置していて、毎年のように台風の被害をうけます。そこである田舎町では、海の神をお祭りする事で、災難を沈めたのです。この施設を創設した高村氏は、その事にちなんでこの名称を付けたのです」
「へーっ、目から鱗、凄く意味深いんですね」
孝之は、今更ながらに感心して、納得した。
「最後に一つお聞きしてよろしいですか?」
「はいどうぞ」
「要らぬお世話ですが、ここで頂くお給料で、生活はなんかは大丈夫ですか?」
「それは大丈夫です。一般企業となんら変わりはありませんよ」 と直之は半分苦笑い。
“何を聞くのかと思えばそんな事か” と彼は思った。
「それを聞いて安心しました。ではお二人末永くお幸せに・・・」
孝之が時間を確認すると、時計の針は午後4時50分を指している。
「あっ、そうだ」
その後すぐに、直之はポケットからスマホを取り出すと・・・
「父の任意代理人の方に、私の連絡先を伝えてください。何かあったら連絡を下さる様お伝え下さい」とスマホの画面を孝之に見せた。
「分かりました。お伝えしておきます」
直之は、ふと携帯の画面を食い入るように見つめた。
「スケジュールに空きが有りそうなので、近いうちに父の病院を訪ねてみることにします。父とは、もう随分と長い間会っていないので・・・」
洋子が思わず孝之の肩を叩いて歓喜した。
「お父様も、きっと大喜びされると思いますよ! ねっ孝ちゃん」
「僕も同感、ゆっくりとお話されるといいと思いますよ、直之さん」
直之の瞳が、心なしか潤んでいる様に感じられた。気が付くと部屋の外では、業務報告を終えた職員の足音が、にぎやかに聞えて来る。帰りの時間も近づいて来たので、そこで二人は直之と別れた。
孝之はふと感じた。想像する事と現実とでは、大きな隔たりが有るという事を、世の中には、こんな無欲な人も居るものだと感心した。野々村弁護士との契約も無事果す事が出来たし、この承諾書を彼に手渡せばすべて完結する。「ふ~っ」と溜息をついて、安堵に胸をそっと撫で下ろした。
帰り際に受付窓口に立ち寄り、桂川理事長と事務員の女性にお礼の言葉を告げて、迎えに来たクシーに乗り込んだ。帰りの電車の中で、洋子が羨む様につぶやいた。
「結婚かぁ・・・羨ましいなあ」としみじみ呟く……
「今なんて言ったの?? 電車の音がやかましくて聞き取れないよ」 と孝之はいった。
通勤時間帯と言う事もあって、乗客の乗り降りが頻繁に繰り返された。車内は何処もかしこも人の波と、ざわめきで埋め尽くされていた。
「帰ったら食事にでも行こうか? 洋子ちゃん」
「えっ、今なんて言ったの?? 周りが騒がしくて・・・」と耳を塞ぐ
「食事・・・おごるからさあ」
「ほんとに~」
「あっ、そこだけ聞こえるんだ」
「了」