中国の油餅。薄い。塩気も甘みも合いそう。まさい!
その前に頂いたのは唐揚げ甘辛ソースがけ。いつも大盛。付け合わせが麻婆豆腐なのも良い。
うがみやびらん。拝ん遠さぬ。
公式発表の通り、菊地成孔DC/PRGが解散する事になりました。3/26の大阪バナナホール、4/2の新木場スタジオコーストの二公演で最後です。
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私がこのバンドを知ったのは大学生の頃でした。菊地成孔氏が東大で非常勤講師として受け持っていた、後に「東京大学のアルバート・アイラー」として書籍化される授業を取っていた私は、菊地先生のやってる音楽如何なものぞ?との興味から当時Date Course Pentagon Royal Gardenという名前だった当バンドのアルバムを聴いてみたのです。構造1の4拍子/5拍子ポリリズムは勿論かっこいいんだけど、音色が綺麗だなというのが一番の印象でした。音色は大事です。
四年生になると遅々として進まない卒論から逃避するように当バンドのアンコール定番曲"Mirror Balls"のライブ動画を繰り返し視聴して構成も旋律もすっかり憶えてしまいました。2007年の事です。今でもこの曲を演奏する度に、こんなに多幸感溢れる曲があるのかと感動します。
一度くらいこのバンドのライブに行ってみようかと思った矢先、無期限活動休止が発表されてしまいました。後から聞いた話では、渋谷On Air EastだったかWestだったかで行われた休止前最後の公演のアンコールでは奏者全員が席を入れ替えて他人の楽器を演奏したそうです。サックスの津上研太さんがタブラを叩いたとか、鍵盤の坪口さんは元々ホルンを吹けるからトランペットも割と吹きこなしたとか、信じられない・想像も付かない話です。
翌年私は菊地さんの塾「ペンギン音楽大学」のサックス課を受験し"フンボルト"というペンギンの種類の名の付いた上級クラスに振り分けられましたが、程なくして「授業に来るより退学してバンドをやった方がいい、人を紹介するから」と言われます。そうして菊地さん経由で知り合ったのが同じペン大の音楽理論課の生徒で後にDCPRGでも共演する事になるベーシストのアリガス氏とドラマーの田中教順氏でした。
彼ら二人とフルート奏者・鍵盤奏者を加えた編成で人知れず都内某所に籠り『朱雀大路』としてアリガスの作った曲の練習を始めて1年強が経った2010年、菊地さんから「メンバーを入れ替えて再結成するDCPRGと、ダブセクステットの次形態の二つに加わって欲しい」との連絡がありました。後者は結局進まなかったものの、DCPRGの一員になった私は自分が聴いていたバンドのメンバーに抜擢されるという、駆け出しの音楽家としては夢が最高の形で叶うような経験をする事になったのです。朱雀大路の二人が一緒に加入したのも心強いことでした。
実は2008年頃、各大学のビッグバンドで演奏していた大学の同年代の人達が新しいビッグバンドを結成し、DCPRGの曲を演奏して「山野ビッグバンドジャズコンテスト」という学生大会で入賞を目指しているという噂を聞きました。短期とはいえ明治大学BSSOのリードアルトを務めていたことがあり、界隈に知己もあって菊地成孔ファンを公言していた(筈の)私としては自分が誘われなかった事が少し悔しかったものですが、その2年後に自分がその"モノホン(学生バンド用語で、参照元の音源のこと。学生ビッグバンドはおおかたコピーやカバーなので)"のメンバーになった事により、内心における完全なリベンジが果たされたのでした。彼らはそんな事に関心は無いのかも知れませんが。言問通りを歩きながら「高井ってさあ、音汚いよね」て言ったあのトランペッター、憶えてんのかな?キングダムのメンバーで今でも音楽まともに続けてる/界隈で見かけるのは多分、パーカッションの酒井タカフミ一人ですね。そんなもんだよお前らなんて(タカフミ君は東工大Los Guaracheros出身で、すげえカッコいいよ、彼はすごい 追記: もしかしたら早稲田のテナーサックスの大郷君もいたかも。彼は今は"BWPとファンキーヘッドライツ"というバンドの一員で、私はメンバーサイン入りアルバム持ってますw)。学生の時にビッグバンドサークルで音楽やって友人や恋人なんかも作って、大会のことを就活の面接の話題にでもしてその後の人生で凡庸な成功を収めて今や音楽なんてやる必要なくなっちゃったのであろう勝ち組秀才君たちに現時点で恨みは勿論ないけど、当時のヤツらに対する嫉妬を含む本心や自分の状況に対する不満やそれがどう回収されたかを思い出してると普段なかなか書けない文も流れるように書けるなあ、質の良し悪しはともかく。キングダムに誘われてたらワタシ喜んで吹いてたと思うんだよね。因みにそのコンテストでは、元々あった東大のビッグバンドJazz Junk Workshopが初入賞を果たした一方で東京大学キングダムは箸にも棒にもかからなかったようです。ザマァみろよ俺呼ばねえからだよ。
(追記2021/7/28: この記事を読んだ東大のPOMPという音楽団体でサックスを演奏されている大学院生の方から「東大の現役学生の中で、キングダムは音源と資料しか残ってない不思議な存在だったので謎が解けました!」とのお言葉をTwitter上で頂きました。書きたいことを書き散らして図らずも歴史の謎を解くことになったことを嬉しく思います。また、キングダムは山野に出る為だけの一度限りのバンドだったので組織として存続させるつもりは無かったんだと思いますが、少しでも鋭い目の付け所を持ったバンドがその後何にも発展しなかったっぽいのは残念です。山野の動画はYouTubeに残ってます。DCPRGの構造1と、ジャズトロニックの曲ですかね。
医学部にいた太田峰人君がマークシックスでテナーソロ吹いてますね。テナーは書きソロ、トランペットはアドリブだったと聞いてます。一度だけ、酒井タカフミ君と太田君と、一緒にアコースティック編成で演奏したこともあります。私が作った曲やジョンコルトレーンのNaimaなんかやりました。トランペットソロは明治BSSOレギュラーバンドで一年生の頃からリードを務めた高橋祐一氏です。彼は音感が非常に鋭敏でした。)
で。その新生DCPRGのリハーサルに行けば小学生の頃からCDで聴いたりTVで観たりしていた有名人、ライブを観に行ったスタープレイヤー、日本にいたら誰もが知らないうちに聴いた事があろう売れっ子スタジオミュージシャン、といった達人がスタジオに集まっていました。ミラーボールズだけは先述のとおり暗記していたので楽譜も何もいらなかったのを憶えてます。渋谷の野音での公演の前、何年も連絡を取り合っていなかった中高の同級生から突然電話がかかって来ました。「おめでとう!」と興奮気味に言う彼は、高校の頃から菊地成孔ファンだったのです。他にも同様の同級生が複数名いたようです。気の利いた趣味のあるやつがいた学校もあったものですね。
自分が思う以上に有名だったらしいそんなバンドに入ってからは、雨の野音に始まりフジロックや東京JAZZのステージで大観衆を前に演奏できて、泊まりがけで地方もまわり、広い楽屋があって楽屋弁当があって、終演後には菊地さんの知り合いのいろんな業界の有名人が楽屋を訪問し、宴席ではとてもここに書けない裏話に触れ、トークイベントやサイン会にも出たりして(場所間違えて遅刻したけど)...と、音以外の面でも貴重な体験をさせて貰いながら、ミュージシャンぽいな自分、と高揚することも多々ありました。
大舞台ならではの客席の盛り上がりが伝わって来る事にも感激しますが、例えば京都ボロフェスタでミラーボールズのイントロからテーマに差し掛かり、ソプラノサックスのソロに移る間、一人一人の表情まで見えた時には、自分が演奏する事で人がこんなに楽しそうにしてくれることがあるのかと、音楽家冥利に尽きる思いに満たされたものです。新体制になってから始めてHEY JOEを演奏した時の熱狂も忘れられません。新旧のファンが多大な関心を寄せ続けたバンドだからこそのものだったのではないでしょうか。
時には先輩にお説教を頂き、演奏中に目を見合わせては笑いながら、こんな迫力あるバンドの一員になれて良かったな、と思い続けて来ました。思い出は尽きません。公演ごとに思い出を書き留めたりするかも知れません。
このバンドで何かを学ぶことがあったとしても、それが他のどこかで活かされたとしてもそれはただの結果ですからあまり考えることもありません。このバンドで演奏していた時間はそれ自体が目的であり、ただ幸せだった時間として完結しています。それが最後になることはとにかく寂しいものですが、仕方ない。10年半、有り難うございました。
それでは御予約にお進み下さい。みんなきてね。