看取りは、
食べない、食べられない、から始まるのだと思う。
お義母さんは2013年の10月に認知症だとわかり、
我が家に1ヶ月ほどいたあと、1人暮らしを続けることになった。
2014年の2月に、一度だけ専門医に見てもらって、
前頭葉側頭葉が少し萎縮していること、
心臓が肥大していることも、
この時聞いた。
それからのお義母さんは、
まずヘルパーを利用した。
時々不穏を起こしながら、物盗られ妄想を起こしながら、わりと平穏に1人暮らしを過ごしていた。
2016年くらいまでは、自分でたまに調理をしていたし、入浴や毛染めなども自分でやっていたのだ。
お義母さんは記憶力はあまり落ちなかったが、
意欲はだんだんと下がって、
2017年に宅配弁当を頼み、
その秋に圧迫骨折をして1ヶ月ほど入院し、
退院後にやっとデイサービスに週に1回行くようになり、
訪問看護のサービスも利用しはじめた。
不整脈で意識がなくなり、救急車で運ばれたこともあった。
2018年の夏くらいから食欲は落ちてきていた。
目の前にあるものしか食べなくなり、自分から冷蔵庫を開けて食べ物を口にすることを、あまりしなくなった。
アメやチョコレートばかり食べて、
タバコは大好きだった。
そして去年の11月13日、呼吸困難で入院した。
まだ、自分で歩けたし、リハパンは使用していたものの、
排泄は自立していた。
心臓は肥大、
ゴムが伸びきったようになり、弱く脈を打つようになっていた。
お義母さんは最初は空腹を感じていたようだが、治療のために絶食したこともあって、
食欲自体がなくなった。
意識はあり、
受け答えはしっかりしているお義母さんに対して、
旦那(お義母さんの嫡子の長男)は、
食欲がないままにしてしまうと、
そのまま、一週間ほど、長くて3週間で逝ってしまうことを知り、
ひどい認知症でもないのに、
受け答えもしっかりできるのに、
家族が来ると喜んでいるのに、
自然に任せることはためらわれた。
中心静脈栄養、いずれポートを作るつもりで、手足や鼠蹊部や首筋から、高カロリー輸液を続けた。
年が明けて、高熱を出すようになった。
黄疸も出た。
肝臓がうまく働かなくなったようで、ポートを作ることは断念した。
体はあちこち浮腫みだした。
88歳。
この先どれだけ穏やかに生きられるのか。
意識はしっかりしていたが、
入院当初から、
早くお迎えが来たらいいのに、
とは言っていた。
点滴の管や導尿の管から感染するのだろう、
高熱は2、3日に1度は出るようになった。
お義母さんは自分はもう長くないことは、薄々感じていた。
そういうことも口にするようになった。
2月を過ぎて、
お義母さんが急変して電気ショックで蘇生した。
旦那は仕事を休んで泊まり込むことを決意した。
一週間病院に泊まり込んで、旦那は5回、
お義母さんの発作?に付き合った。
心拍数が200を越えると、そのまま、苦しんだまま、戦ったまま、逝ってしまうのだという。
旦那は修造ばりにアツく声をかけて励まし、山を越えるのを手伝った。
5回目に、ワタシとともに、母親が戦っている様子を応援した旦那は、
もういくらなんでもかわいそうだと感じた。
山を越えて落ち着いた朝、旦那は医師に相談した。
高カロリー輸液をやめることを。
医師は、日、月と当直なので、自分の責任で、高カロリー輸液は止めます、
と宣言した。
けれど、おそらく、早ければ今日中です、
と旦那に言った。
お義母さんは、点滴を止める前に、
旦那が決心してから半日で、
金曜日に、
旅立っていった。
今日はお通夜。
午後3時から、お義母さんは湯灌をする。
久しぶりのお風呂だね。
綺麗にして貰おうね。