ここいらへんで、お義母さまのことを振り返ってみよう、と思います。
超大作になりそうですので、何回かに分けて、チンタラ書いていきますね。
お義母さまは、東大阪の、わりと裕福な家に生まれた。
お義母さまの父親は、農家出身で、料亭や建築業をして、財を成した。
お義母さまの母親は九州八幡の、武家の出。
お義母さまは6人兄弟の三番目の女の子で、1番上の姉は、宝塚歌劇団から誘いが来るほど、美しい人だったらしい。
お義母さまは16の時に、赤十字に合格し、終戦までの4ヶ月、お国を守る看護婦として、勉強した。
その後、病院、大林組の事務、郵便局の窓口で働いたらしい。
その間に最初の結婚をし、長女、長男をもうけ、離婚となって、長男は親戚に養子に出した。
お義父さんと知り合い、熱烈な恋愛ののち、再婚した。
お義父さんが、薬品で腕の骨が見えるほどの大やけどをし、初婚ではなかったお義母さまとの結婚は、すんなりとまとまったようだ。
お義父さんの家は、国鉄職員で、天皇陛下のお召し列車の運転(石炭をくべる人だったらしいけど)をしたのが、お義母さまの自慢のひとつだ。
旦那が生まれ、実家に預けられていた長女と共に、最初は実家の離れで、やがてお義父さんの実家で暮らした。
お義父さんの母親は、結婚して早く亡くなった。お義父さんの父親は、10年ほど一緒に暮らしたあと、亡くなった。
長女(お義姉さん)はハタチで嫁に行った。
あとでアタシに、家がイヤやったから、早くお嫁に行きたかった、と話してくれた。
お義父さんにイタズラされたり、お義母さまに厳しくされたんだそうだ。
中学生の時からアルバイトをさせられ、高校時代には、ラグビー部のマネージャーをしたのだが、お金をちょうだいと言えなくて、合宿に行けなかったそうだ。
卒業してOLになってからも、お義母さまはお義姉さんのお給料を取り上げた。
お義姉さんは、お義母さまを恨んでいる。
お義父さんはやけどをしたあと、親戚が経営する土木関係の仕事をして生計を立てた。
お義母さまは専業主婦で、なかなかの教育ママだったようだ。
学校の役員などをした、きちんとした人であった。
お義母さまはお義父さんの実家を売り、今の家を買った。
旦那は大学進学で家を出た。
アタシと旦那が結婚した。
お義父さんは72歳で亡くなった。
お義母さまは74歳。1人暮らしになった。
この頃から、お義母さまに、認知症は忍び寄っていたと思う。
さあお義母さまの奇行?を紹介していくわ。