うまれてこのかた
僕は幸せに五体満足に
あたたかな両親と兄弟に囲まれ
育った
もちろん
「こころに闇を抱えた」事くらいは
僕にもあなたにも
「平等に」あっただろうけれども、、
ありがたい環境で育った
この三日間
いろいろ
ハンディを持つ仲間達と
恒例の夏合宿に出かけてきました
20年も付き合ってくれば
20歳の少年も40歳になるわけです
そんな歴史の中で
その中で今回はじめて聞く悲しい「気持ち」をききました
それは「僕はアタマが悪いから殺されるかも」
そんな言葉でした
ああ あの事件の報道が耳に入ったんだな
と思う
例えば排泄なんかも上手くできない仲間がいるから
そりゃあ大変だけど
そのお母さんの息子への愛情は
僕の母親が僕に注いでくれるそれと同じわけです。
例えば「能力が高い 効率が良い」がもちろん「評価」
のひとつになるのは世間だし
「経済」的にはそうだろうとは思います
「豊か」じゃなければ「ボランティア精神」も
例えば「誰かを助ける予算」もないわけです
綺麗事で腹は膨れないw
「衣食足りて礼節を知る」って言いますよね^ ^
じゃあ
本当に彼らがの存在はマイナスか
って話しになる
僕は「めっちゃ学んだ」んですよ
「生命力の強さ」が 凄いから
あと「命の儚さ」も学んだかな、、
「謝ること」「はがゆくても諦めない」とかも彼らから学んだ
いわゆる健常者から学んだそれとは違う角度で学んだんですよね
それから「命はあるだけで意味がある」ってことも「人間には居場所がある」ってことも学んだ
凄く深いようで薄っぺらな考え方として
「弱者を排除することが社会の健在化につながる」って考え方があったとして
ちょっと考えたらわかるけど
自分自身 すぐに 「明日は我が身」なわけです
テストで偏差値50以下は退学
なんてやってたら
すぐに 最後の2人になって
最後は1人ぼっちになってしまうことが想像出来てしまうわけです
ひとりぼっちの学校って 寂しいなぁ
社会にひとりぼっちって寂しいですよね?
もちろん「競技」の素晴らしさはある
まさにいま開催されている「オリンピック」は
その最後の1人が賞賛される対象になるわけです
そうではないことがこの2つの例でわかると思うんです
スポーツや武道には「負けても幸せ感」がありますよね?
「悔しさ」と 同居して 「磨くことによる精神の成長」が やっぱり嬉しいんですよね
「命って素敵だ」
それを守りたいから
誰かに感謝したいから
誰かを喜ばせたいから
幸せになって欲しいから
そしてそれは
誰かにとっての自分かもしれない
そうやって僕は生きていたいし
みなさんもきっとそうだと思うんです
普通
だと思うんです^ ^
僕が登校拒否で
なまけもので
まともな仕事にもつかなかった
好きなことばかりをやって生きている
高額納税者ではないから
と言って僕の命は誰か
が奪って良いものじゃない
だって そんなことしたら
うちの両親は悲しみますから!
きっと
3日前に「ちょっとまた薬が増えちゃって」
そう心配そうに僕に愛息を預け
3日後 迎えに来たお母さんの安堵の表情は
同じボランティア仲間でこの会に参加してきた小学生を迎えるお母さんと同じで
きっと 小学生の僕が林間学校から帰ってきたときの母親の姿と同じなんだと思う
その幸せは何十年も積み重ねてきたものだ
ちょっと「かわった角度からみた」だけで
世の中悟ったような考え方は通用しないし
「幼稚」だし 「かっこ悪い」なあ
と思う
僕も 「正義感」を振りかざしてしまうことがあるが
本当は「幼稚」で「かっこ悪い」んだと思う
ましてや
「命」を奪うなんてのは
評価されるわけがない
SNSはバーチャルな場所でもあるけど
人生は生身の人間は
「新しいアカウント」
なんて簡単につくれない
再出発にはなかなかの時間を要する
「人生台無し」にしてしまうわけです
「いろいろあんだけど結局 笑顔みたら 許しちゃうんだよな」
それって普通に良くあることで
素晴らしいことだと思うのです^ ^
弱い彼らが僕を頼ってくれる
それだけで
僕は幸せだし
また
こんな僕で良かったら
たった3日前くらいチカラを貸したい
3/365日 だけどね^ ^
この3日間のおかげで僕の生産性はアップしますよ
必ずね
だから
みんなそれぞれで
生きているだけで素晴らしいんだと思うのです
逆の立場や困難を抱える方のお気持ちを逆なでするようなブログかも知れません
もしそうでありましたら
申し訳ありません
先にお詫びしておきます。
僕が今回書きたかったことは
「命の価値は誰かがマイナスに決めて良いもんじゃない」ってことだけなんです
それ以上でも以下でもありません
ありがとうございました
【お詫び】この回のブログはコメント出来ないように設定します
またね♪