前回から随分と時間がたってしまった。
結局何をしたらいいのか思い浮かばないままに、18,19日と再び宮城へ。
今回は駆け足の二日間。
仙台市内、多賀城、七ヶ浜の友人知人を訪ねたりで終わるだろうと、東松島は若干の物資を送るだけ。
多賀城駅に着くと前回風呂なんかをやってくれていた「沖縄第15旅団」の姿はない。
民間の風呂屋なんかが再開してそちらにバトンタッチという所だろうか。
ボランティアは屋外の側溝の泥かきなんかが主な仕事になっている模様。
話を聞くと場所によってだけど屋内清掃には一定のめどがついたとか。
七ヶ浜に向かう途中貞山堀がものすごく臭い。
水の色も昔見たこともないような色で、始末が進まないままに水道なんかが復旧して、地震や津浪の影響を残したままの所に生活排水が流れ込んだのが原因とか。
ボランティアをかき集めてどうこうできる場所じゃないし、重機なんかを入れるにしてもやっぱり居住区域なんかが先で、掘り割りなんかは後回しになってしまうのかな?
七ヶ浜ボラセンで差し入れ。
信州土産の甘い物を少々置いてきた。
自分が出来ないことを頑張ってくれている人たちに、こんな事しかできない。
道路と住宅地はある程度片付いているようだけど、田畑は殆ど手つかず。
流れた住宅や自動車の瓦礫がそのまま残っている。
菖蒲田の港に出て、家の形が残っている知り合いの所に行くも、今回も会えず。
地元の友人に聞くと「無事でいるらしい。けど、自分も連絡ついていない。」と言うことなんだが、忙しいのかな?
多賀城に戻り昔お世話になった「村っ子」さんに。
避難している方達も時折みえると言うことなので、ここにも少し信州土産。
しばらく話をしてから多賀城のボラセンに、ここでも信州土産の差し入れ。
多賀城駅から仙台へ。
こちらの知人を訪ねるにもチェックインするにもちょっと早い時間なので、駅の三階立ち食い寿司屋で遅めの昼食。
前回来た時は寄る暇がなかったんだけど、話を聞いたら今月頭から再開したと。
ホテルにチェックインの後上杉で二軒知人を訪ね「被災見舞い」。
第一日目を終了。
開店早々の店内に招かれ、カウンターの中には老けはしたけれど、以前と変わらない笑顔の村長(マスター)がいた。
地震のこと、店を作り直したことなど、いろいろ話し「知り合いみんな無事だったので一人祝杯。」とビールを頼み昼酒。
安心の後の酒は旨い!
そうこうしていると最初の客が入ってきて、村長が「おう、また来たか?」と。
岐阜から二度目の炊き出しのボラだという。
メンバーは一人を除いた全員と初顔合わせでまだ会っていないとか。
若い人たちはフットワークが軽い。
話を聞いているとボラのメンバーは被災者に炊き出しをしても、自分たちは別で最初は夕飯がカロリーメイトだったという。
テレビなんかを見ていてもボラは三食インスタントラーメンとか少し考えさせられる。
多賀城辺りだとかなり飲食できる店も復活してホテルもあらかた営業再開しているので、金があればそんなに苦労しないが、交通費自分持ちで食事も準備宿泊も自分で何とかって、現状の被災地ではまだまだきつい。
「せめて各自治体でバスを出してくれるとか、ボラのハードルがもう少し下がればいいのに。」と話す。
ぽつぽつと客が増えてきたのでそろそろ失礼しようかと思ったところに電話が来て、見知らぬ電話番号だが出てみると「分かるか?」と少しおかしな声に首を捻っていると「俺だよ、Mだよ。」と。
Iから聞いて電話をよこしたらしい。
今から出てくるというので店を出て多賀城駅に。
「30分ぐらい。」と言っていたが結局1時間近く掛かって奥さんの運転で現れた。
それにしても当時からMが時間通りに現れるのを見たことがない。
30年近くたっても相変わらず時間の読みが甘い奴だ。
食事をしながら話をしたら、仙台に出ていた娘さんは5日間ほど連絡が取れなかったと。
「俺も女房も半分諦めてたんだ。」と、今でこそ笑って話しているが当時は生きた心地もしなかったのだろうな。
しばらく昔話などしてから「送っていく。」というので船岡まで送ってもらう。
前回の記事は何とも感情に流されてしまったので、少し時間をおいて冷静になったところで。
5月3日
この日は学生時代の同級生や知人の消息探しなので、ボラや公共の災害復旧作業の支障にならないよう、車はホテルに置いて船岡駅より東北線で仙台へ。
当時に比べ格段に綺麗な仙石線ホームから電車で、これも初めての半地下鉄道で多賀城に、車窓に見える景色は見知らぬ町のそれだった。
多賀城に着くと駅前広場には「沖縄第15旅団」のキャンプがあり、被災者のお風呂なんかをやっている模様。
自衛隊の皆さん遠路遙々ご苦労様です。
あまりの変わりようにしばし感傷に浸っていると、いつの間にかバスは発車「次でいいや。」と時刻表を見ると次発は1時間30分後。
「ここまで減ったのか。」と仕方なくタクシーで産業道路を通り左に自衛隊駐屯地を望み、右に震災当時一週間以上燃え続けたコンビナートを見ながら、七ヶ浜に入り割と被害のない町並みを抜け一山越えて菖蒲田に。
山を越えたとたんに様相は一変する。
目に映るのは瓦礫とかろうじて立っているかつて「建物」だったモノ。
ここまで酷いとは・・・。
一人の友人の家は港側だけど、こちらは後回しでとりあえず国際村に直行。
何人かの友人知人の名前で探しても避難所名簿では見つけられず、唯一「代ヶ崎 I」(名前と居住集落だけで他の情報は一切無し。)だけが一致したのを頼りに本人なのか同姓同名なのか確かめるため。
この手の情報はもう少し詳細にして欲しいです。
せめて年齢があるとかなり絞れるんだけど、役場に余力がないのかもしれない。
避難所に入り、入り口に座る受付とおぼしき方に声をかけ「済みません代ヶ崎のIというのは・・・・」と話し始めたところ突然「中村ちゃんじゃねぇの?こんな所でどうしたの?」と。
なんと当の本人が後ろにいるという、小説にでもありそうなご都合主義的偶然の再会となる。
帰りがけに聞いた話だと「買い物に出かけるところだったから、後2,30分もしたらいなかった。」とか。
菖蒲田のバス停からかなり歩くつもりだったから、もしかしてバスに乗り遅れてタクシーにしたのが怪我の功名だったのかもしれない。
避難所の中では「Mは本人は泉だから何ともないけど、両親は家ごと流されて九死に一生だった。」とか「Aは家も半壊で本人無事だったけど、お袋さんが・・・。」とか、七ヶ浜の友人知人(本人)の無事は全て確認できた。
1時間半ほど話した後「買い物に行く」というので、菖蒲田辺りを歩いてバスで帰るというと「そっち通って送っていくから。」というので車に同乗させてもらう。
避難所から小豆浜に下りるともう別世界のようで、瓦礫と化した建物の土台跡に、砂浜にいくつも打ち上げられたコンテナ群。
ただ瓦礫が堆積するだけのかつて松林だった中を抜け菖蒲田の港へ。
左に見える港は堤防などの基礎こそ余り変わっていないように見えるが、建物は見る影もなく、右に並んでいるはずの家々は土台を残して跡形もない。
ご両親が流された(助かったけど)というMの家も、残っているのは僅かばかりの石垣と数本の松だけ。
ここで右に曲がり小さな丘を挟んだAの家がある裏手に回る。
グーグルアースで見ると大きな被害がなかったように見えたが、残った家々も一階は全て流されている様子が見える。
Aの家も形は保っているので、誰か来ているかと探したがこの日は誰も来ていないようだった。
そのまま後は朝来た道を多賀城に、10時20分駅到着。
今度は駅から踏切を渡り東塩釜方向へ。
学生時代よく行った居酒屋(今では小じゃれたレストラン)「村っ子」に寄って村長(マスター)に会うため。
留ヶ谷の店の前に来ると「11時open」とあり、ただいま10時45分。
どうしたモノかと考えていると中から奥さん(あの頃と変わらず年は取ってもお綺麗です。)が看板を出すために顔を出し、私に気がつくと「地震の後で電話をくださった?」と。

---用事が出来たのでとりあえずここまで。---