本宮ひろ志先生支援 南京捕虜百人切りの真相を知れ!!
転載【新資料】事実だった南京百人斬り競争 / 明日、裁判傍聴を!
熊谷@季刊『中帰連』編集部です。 裁判で争われている、「南京百人斬り競争」についての決定的な新資料が発見されました。簡単にこれまでの経緯を説明します。
1.日本軍が1937年に南京を攻める途上で、二人の日本軍将校が「百人斬り競争」、つまり、中国兵をどちらが先に100人斬るか競争していると、当時の東京日日新聞(今の毎日新聞)が報道しました。もちろん「美談」としてです。 当時は殺人競争が「美談」になった時代 だったのですね。
2.ところが日本の敗戦後、二人の将校は、この新聞記事が証拠となり、戦犯裁判で死刑にされてしまいます。二人は獄中で互いに責任をなすりつけあったりもしています。
3.1970年、ジャーナリストの本多勝一さんがこの殺人競争をルポ「中国の旅」でとりあげ、大きな反響を呼びます。
4.右側の方々からの「反論」がはじまりました。ニセユダヤ人として有名な山本七平さん、『南京のまぼろし』を書いた鈴木明さんなどがその代表格です。
5.しかし彼らの議論は次々と破綻していき、当の本人から「百人斬り競争は、捕虜の据えもの斬りだった」という告白を聞いた志々目証言などが出てくるに及んで、基本的にこの論争は終了しておりました。
6.ところが今年になってまたこの問題が蒸し返されました。「百人斬り競争はすべて新聞記者のデッチ上げであり、死者の名誉が毀損された」などとして、二人の将校の遺族が右翼の人びとの支援を得て、本多勝一さんや毎日新聞、朝日新聞などを訴えたのです。
7.ここからは、あの偉大な俚諺・「ヤブヘビ」を地でいく話となります。 まず出てきたのは、本人たちが自ら百人斬り競争を吹聴していたことを示す数々の新資料であります。 地元の人への手紙で、「敵も頑強でなかなか逃げずだから大毎(注:大阪毎日新聞)で御承知のように百人斬り競争なんてスポーツ的なことが出来たわけです」と本人が書いていたり、本人が「ニッコと笑いながら」、「三百七十四人の敵を斬りました袈裟がけ、唐竹割、突伏せなど真に痛快でした愛刀は無銘でもこの通り刃こぼれは余りありません」と言っていたり 。
8. 本人が自ら吹聴していたことを記事にしたからといって、どうしてそれが名誉毀損になるのでしょうか。誰にも理解できません 。
・・・しかし、これまでは「本人たちが百人(それ以上)斬ったと話していたことは間違いなく事実であるが、実際に斬ったかどうかはわからない」という段階でした。
今回発掘された資料では、この 「百人斬り競争」が実際に行なわれ、それも実際には農民の虐殺であったことが同じ部隊の部下の手によって証言されています 。二人の将校と同じ大隊に属していたM・G氏の手記、『私の支那事変』 (私家版)の43ページ以下であります。引用しましょう。
==【以下引用】======================
・・このあたりから野田、向井両少尉の百人斬りが始るのである。野田少尉は見習士官として第11中隊に赴任し我々の教官であった。少尉に任官し大隊副官として、行事中は馬にまたがり、配下中隊の命令伝達に奔走していた。
この人が百人斬りの勇士とさわがれ、内地の新聞、ラジオニュースで賞賛され一躍有名になった人である。
「おいM(熊谷注:原文では実名)あこにいる支那人をつれてこい」命令のままに支那人をひっぱって来た。助けてくれと哀願するが、やがてあきらめて前に座る。 少尉の振り上げた軍刀を背にしてふり返り、憎しみ丸だしの笑ひをこめて、軍刀をにらみつける。
一刀のもとに首がとんで胴体が、がっくりと前に倒れる。首からふき出した血の勢で小石がころころと動いている。目をそむけたい気持も、少尉の手前じっとこらえる。
戦友の死を目の前で見、幾多の屍を越えてきた私ではあったが、抵抗なき農民を何んの理由もなく血祭にあげる行為はどうしても納得出来なかった。
その行為は、支那人を見つければ、向井少尉とうばい合ひする程、エスカレートしてきた。
両少尉は涙を流して助けを求める農民を無残にも切り捨てた。支那兵を戦闘中たたき斬ったのならいざ知らず。この行為を連隊長も大隊長も知っていた筈である。にもかかわらずこれを黙認した。そしてこの百人斬りは続行されたのである。 (以下続きますが後略)
==【引用ここまで】======================
この資料は1.実際に両少尉の残虐行為を直接見ており、2.望月氏には虚偽の記述をする理由はまったくなく、極めて信憑性の高い資料です。
南京百人斬り競争は実際に行なわれ、被害者は無辜の人びとだったことが、この資料によって明らかになりました。
今年の敗戦記念日の『読売』社説↓とか
>中国の南京攻略戦で「百人斬り」競争をしたという、現実離れした疑いで死刑に >処せられた二人の「BC級戦犯」将校の例もある。遺族が昨年、二人の名誉を回 >復するための訴訟を東京地裁におこした。
週刊「新潮」(7.22)記事に出てくる、水間政憲さんという名の、すさまじい論理飛躍ぶり↓の「ジャーナリスト」とか
>「南京攻略では、武勲のあった兵士に金鵄勲章が授与されました。仮に戦闘行為で100人斬ったことが事実なら、最高の武勲として記録されているはずです。 >しかし実際には、記録を調べてみても2人とも受章していません。つまりそもそも100人斬りなどなかったということになるのです」
歴史の事実を否定することの滑稽さを示して余すところがありません。
そして、新資料はこれだけではありません。まだ他にもあります。 その全貌は明日9月6日の東京地裁で明らかになります。来たれ!
#裁判の詳細、傍聴の方法については「事実.com」を参照。 http://web.sfc.keio.ac.jp/~gaou/jijitu/
kumaアットマークoffice.email.ne.jp 熊谷 伸一郎 拝
熊之巣 http://www.ne.jp/asahi/kuma/radical/
『自然と人間』 http://www.n-and-h.co.jp/
季刊『中帰連』 http://www.tyuukiren.org
戦後責任.com http://www.sengo-sekinin.com/
熊谷@季刊『中帰連』編集部です。 裁判で争われている、「南京百人斬り競争」についての決定的な新資料が発見されました。簡単にこれまでの経緯を説明します。
1.日本軍が1937年に南京を攻める途上で、二人の日本軍将校が「百人斬り競争」、つまり、中国兵をどちらが先に100人斬るか競争していると、当時の東京日日新聞(今の毎日新聞)が報道しました。もちろん「美談」としてです。 当時は殺人競争が「美談」になった時代 だったのですね。
2.ところが日本の敗戦後、二人の将校は、この新聞記事が証拠となり、戦犯裁判で死刑にされてしまいます。二人は獄中で互いに責任をなすりつけあったりもしています。
3.1970年、ジャーナリストの本多勝一さんがこの殺人競争をルポ「中国の旅」でとりあげ、大きな反響を呼びます。
4.右側の方々からの「反論」がはじまりました。ニセユダヤ人として有名な山本七平さん、『南京のまぼろし』を書いた鈴木明さんなどがその代表格です。
5.しかし彼らの議論は次々と破綻していき、当の本人から「百人斬り競争は、捕虜の据えもの斬りだった」という告白を聞いた志々目証言などが出てくるに及んで、基本的にこの論争は終了しておりました。
6.ところが今年になってまたこの問題が蒸し返されました。「百人斬り競争はすべて新聞記者のデッチ上げであり、死者の名誉が毀損された」などとして、二人の将校の遺族が右翼の人びとの支援を得て、本多勝一さんや毎日新聞、朝日新聞などを訴えたのです。
7.ここからは、あの偉大な俚諺・「ヤブヘビ」を地でいく話となります。 まず出てきたのは、本人たちが自ら百人斬り競争を吹聴していたことを示す数々の新資料であります。 地元の人への手紙で、「敵も頑強でなかなか逃げずだから大毎(注:大阪毎日新聞)で御承知のように百人斬り競争なんてスポーツ的なことが出来たわけです」と本人が書いていたり、本人が「ニッコと笑いながら」、「三百七十四人の敵を斬りました袈裟がけ、唐竹割、突伏せなど真に痛快でした愛刀は無銘でもこの通り刃こぼれは余りありません」と言っていたり 。
8. 本人が自ら吹聴していたことを記事にしたからといって、どうしてそれが名誉毀損になるのでしょうか。誰にも理解できません 。
・・・しかし、これまでは「本人たちが百人(それ以上)斬ったと話していたことは間違いなく事実であるが、実際に斬ったかどうかはわからない」という段階でした。
今回発掘された資料では、この 「百人斬り競争」が実際に行なわれ、それも実際には農民の虐殺であったことが同じ部隊の部下の手によって証言されています 。二人の将校と同じ大隊に属していたM・G氏の手記、『私の支那事変』 (私家版)の43ページ以下であります。引用しましょう。
==【以下引用】======================
・・このあたりから野田、向井両少尉の百人斬りが始るのである。野田少尉は見習士官として第11中隊に赴任し我々の教官であった。少尉に任官し大隊副官として、行事中は馬にまたがり、配下中隊の命令伝達に奔走していた。
この人が百人斬りの勇士とさわがれ、内地の新聞、ラジオニュースで賞賛され一躍有名になった人である。
「おいM(熊谷注:原文では実名)あこにいる支那人をつれてこい」命令のままに支那人をひっぱって来た。助けてくれと哀願するが、やがてあきらめて前に座る。 少尉の振り上げた軍刀を背にしてふり返り、憎しみ丸だしの笑ひをこめて、軍刀をにらみつける。
一刀のもとに首がとんで胴体が、がっくりと前に倒れる。首からふき出した血の勢で小石がころころと動いている。目をそむけたい気持も、少尉の手前じっとこらえる。
戦友の死を目の前で見、幾多の屍を越えてきた私ではあったが、抵抗なき農民を何んの理由もなく血祭にあげる行為はどうしても納得出来なかった。
その行為は、支那人を見つければ、向井少尉とうばい合ひする程、エスカレートしてきた。
両少尉は涙を流して助けを求める農民を無残にも切り捨てた。支那兵を戦闘中たたき斬ったのならいざ知らず。この行為を連隊長も大隊長も知っていた筈である。にもかかわらずこれを黙認した。そしてこの百人斬りは続行されたのである。 (以下続きますが後略)
==【引用ここまで】======================
この資料は1.実際に両少尉の残虐行為を直接見ており、2.望月氏には虚偽の記述をする理由はまったくなく、極めて信憑性の高い資料です。
南京百人斬り競争は実際に行なわれ、被害者は無辜の人びとだったことが、この資料によって明らかになりました。
今年の敗戦記念日の『読売』社説↓とか
>中国の南京攻略戦で「百人斬り」競争をしたという、現実離れした疑いで死刑に >処せられた二人の「BC級戦犯」将校の例もある。遺族が昨年、二人の名誉を回 >復するための訴訟を東京地裁におこした。
週刊「新潮」(7.22)記事に出てくる、水間政憲さんという名の、すさまじい論理飛躍ぶり↓の「ジャーナリスト」とか
>「南京攻略では、武勲のあった兵士に金鵄勲章が授与されました。仮に戦闘行為で100人斬ったことが事実なら、最高の武勲として記録されているはずです。 >しかし実際には、記録を調べてみても2人とも受章していません。つまりそもそも100人斬りなどなかったということになるのです」
歴史の事実を否定することの滑稽さを示して余すところがありません。
そして、新資料はこれだけではありません。まだ他にもあります。 その全貌は明日9月6日の東京地裁で明らかになります。来たれ!
#裁判の詳細、傍聴の方法については「事実.com」を参照。 http://web.sfc.keio.ac.jp/~gaou/jijitu/
kumaアットマークoffice.email.ne.jp 熊谷 伸一郎 拝
熊之巣 http://www.ne.jp/asahi/kuma/radical/
『自然と人間』 http://www.n-and-h.co.jp/
季刊『中帰連』 http://www.tyuukiren.org
戦後責任.com http://www.sengo-sekinin.com/