子どもの役に立つ「親の教え」と邪魔になる「親の呪い」の違い | 家庭を子どものBASEに 佐伯和也公式ブログ

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子どもが思う存分遊ぶ(ゲーム含む)ことで、知的好奇心が育ち、それが勉強にも繋がっていく

昨日、

 

「子どもに教えたい仕事観」

 

っていう記事を書いたんだけど、まだ読んでない人がいたら、ぜひ読んでみてね。

↓↓↓

 

 

 

 

この記事の中でも書いたんだけど、親が子どもに教えることには、

 

子どもの人生のヒントになる「教え」

 

子どもの人生の邪魔になる「呪い」

 

の2つがあります。

 

 

 

「親の教え」は、

 

子どもに本質を説き、

 

子どもの可能性を広げ、

 

子どもの才能を拡張し、

 

子どもの勇気となり、

 

子どもの思考を深め、

 

子どもの視野を広げていきます。

 

 

 

「親の呪い」は、

 

子どもをコントロールするための方便であり、

 

限定的に正しいことであり、

 

子どもの可能性を制限し、

 

子どもの才能を抑圧し、

 

子どもの勇気をくじき、

 

子どもに考えさせないようにして、

 

子どもの視野を狭めます。

 

 

 

「親の教え」は、

 

「それを採用してみたら、幸せになる」

 

っていうもの。

 

 

 

ただ、この「幸せ」っていうのは、

 

「あ~、幸せだなぁ」

 

って実感できることに繋がることを言います。

 

 

 

楽しかったり、

 

繋がりを感じたり、

 

心地良かったり、

 

安心できたり、

 

希望に満ちていたり、

 

心の奥底からエネルギーが湧き上がってくる感じだったりする。

 

 

 

アドラー心理学的に言えば、

 

「共同体感覚」

 

だよね。

 

 

 

自分が好き(自己受容)

 

人は信頼できる(他者信頼)

 

貢献している(貢献感)

 

この3つが「共同体感覚」です。

 

 

 

別の言い方で言えば、

 

「みんなが幸せでいるために、自分にできることは何だろう?」

 

って考えている状態。

 

 

 

 

 

そして、人生の本質であり、可能性を広げたり、才能を発揮する手助けとなるならば、

 

「当然、親も採用してるよね」

 

って話になる。

 

 

 

例えば、よくあるのが、子どもに、

 

「勉強するのが大事」

 

って言う割に、

 

「親は何も勉強をしていない」

 

っていう状態。

 

 

 

日々、家事や育児をするだけ

 

日々、仕事をしてるだけ

 

日々の生活を一生懸命やるのはいいんだよ。

 

 

 

それはそれとしていいんだけど、その上で、

 

「勉強することは大事だよ」

 

って言うなら、

 

「なんで、親は家事や仕事はしてるけど、勉強してないん?」

 

っていうツッコミが当然入るよね。

 

 

 

「勉強をしたら良いことがある」

 

って言ってるのに、親が勉強してないのはなんで?ってなる。

 

 

 

他にもさ、子どもには

 

「一生懸命がんばってる姿を見たい」

 

って言いながら、親は日々の生活に忙殺されてない?

 

何かを真剣に、一生懸命になっているかい??

 

って話になるじゃん。

 

 

 

「子どもには一生懸命がんばってほしい」

 

って思うのに、

 

「親は一生懸命にならなくていい」

 

っていうのは、どういう論理かね?って話やんね。

 

 

 

もし、

 

「私は、やりたくもない家事を我慢してやってるんだ」

 

「俺は、やりたくもない仕事を我慢してやってるんだ」

 

って思うならさ、その、

 

「我慢と不幸と不満に満ち溢れた状態」

 

を子どもに対しても、

 

「私と同じように苦しめ」

 

っていうことになるやん?

 

 

 

いやいや、

 

「いかにして、子どもが自分と同じような苦しい状態になるか?」

 

よりも、

 

「いかにして、自分がその苦しい状態から抜け出すか?」

 

を先に考えませんか?って思うやんか。

 

 

 

「自分がその苦しい状態から抜け出す」

 

っていうことを棚に上げたままにしちゃってるから、

 

「子どもにも自分と同じ苦しい状態を望む」

 

っていう親として本末転倒な状態になっちゃってる。

 

 

 

そうやって、

 

「親の呪い」

 

が出来あがる。

 

 

 

子どもに幸せを望むなら、

 

その前に、まずは親が幸せになっとかんと。

 

 

 

「親の呪い」

 

っていうのは、

 

親が自分の課題に気付かなかったり、向き合うのを避けていて、

 

「自分はこんなに苦しんだ」

 

「自分はこんなにしんどい」

 

「自分はこんなにがんばってる」

 

「自分はこんなに我慢してる」

 

みたいなことを他者に証明するために、

 

「子どもにも同じ目に遭わせよう」

 

って思うためのものなのね。

 

 

 

承認欲求であり、自己証明なの。

 

苦しさや不幸の自己証明。

 

それを子どもを使ってやろうとしてるのが、

 

「親の呪い」

 

です。

 

 

 

例えば、

 

「子どもに学校に行ってほしい」

 

っていうのが、

 

「親は学校に行きたくて行っていた」

 

っていうのであれば、

 

「子どもが学校に行かない選択を認められる」

 

はずなんよね。

 

 

 

自分がカレーライス好きであっても、嫌いな人には無理に進めへんやんか。

 

嫌いな人にカレーライスを無理に進めるのは、

 

「本当はカレーライスが嫌いだったり、そんなに好きじゃない人」

 

が、

 

「カレーライスを食べないと死ぬ!!」

 

みたいな強烈な恐怖心を持ってる場合に、

 

「カレーライスを食べなさい!!」

 

ってなる。

 

 

 

「私は、学校に行きたくて行ってなかった」

 

って言う割に、

 

「子どもの不登校を受け容れられない親」

 

は、決して珍しくない。

 

 

 

子どもの不登校を受け容れられない・・・

 

すなわち、

 

「子どもに何とかして学校に行って欲しい」

 

って思うのは、ほぼ間違いなく、

 

「親は、学校に行きたくて行ってたわけじゃない」

 

ってこと。

 

 

 

「本当は行きたくなかったのに、行かないといけない」

 

と思ってた。

 

 

 

でも、それが人生のどこかのタイミングで、

 

「私は、学校に行きたくて行ってたんだ」

 

にすり替わっちゃう。

 

 

 

本当に、学校に行きたくて行ってたんなら、子どもの不登校で動揺したり、深く悩んだり、

 

「何とかして、学校に行かせよう」

 

みたいには思わんはずなんよ。

 

 

 

じゃあ、なんで、

 

「本当は行きたくなかったのに、親になったら『学校に行きたくて行ってた』ってなるのか?」

 

っていうと、これは、

 

「認知的不協和」

 

っていう現象が起こってるのね。

 

 

 

学校に行きたくなかったら、その自然な気持ちで行動を選択するなら、

 

「学校に行かない」

 

になるでしょ?

 

 

 

でも、学校に行かない選択をする勇気が持てなかったり、学校に行かないことを許されない環境にあると、

 

「学校に行きたくないのに、学校に行ってる」

 

っていう矛盾を孕んだ状態になるのね。

 

 

 

矛盾を孕んだ状態になると、

 

「自分」

 

っていうものを維持するのが難しくなる。

 

なんか気持ち悪い感じになる。

 

 

 

そうしたら、

 

「勇気を出して、学校に行かない選択をする」

 

か、

 

「勇気を出さずに、『そうだ、私は学校に行きたい、ということにしよう!』と思い込む」

 

かのどっちかに変わっていく。

 

これが「認知的不協和の解消」です。

 

 

 

 

 

 

 

「親の呪い」

 

って、元は、

 

「自分を苦しめていた思い込み」

 

なんだけど、何らかの理由で、その苦しい状態を抜け出すことができなかった。

 

抜け出す勇気が持てなかった。

 

 

 

そのうち、その思い込みを

 

「正しいものなんだ」

 

「この思い込みに、自分を合わせないといけないんだ」

 

って思うようになった。

 

 

 

「自分が苦しいのは仕方が無い」

 

って思って、幸せになることを諦めちゃった。

 

 

 

子どもができたら、子どもは自分の分身みたいなもんよ。

 

その子どもが、苦しい状態を抜け出したり、幸せになってるのを見つけると、

 

「え、私の分身なのに、何を楽になろうとしてるの?なんで、幸せになろうとしてるの?」

 

みたいに思って、

 

「学校には行かなければならない」

 

「お風呂には入らないといけない」

 

「勉強をしないといけない」

 

「外で遊ばないといけない」

 

「ゲームをしてはいけない」

 

「がんばらないと人から愛されない」

 

「自分は何をやってもダメ」

 

「自分を可愛い(かっこいい)とか思ってはいけない」

 

「人は簡単に見捨てる」

 

「もっとがんばらないと生きていけない」

 

みたいに、子どもが生きていくのが難しくなるような「親の呪い」を伝える。

 

 

 

子どもにも、自分と同じような苦しい状態になるようになってもらうことで、

 

「私が(俺が)、ここまで苦しんできたのは、間違ってなかったんだ」

 

って思い込みたい。

 

 

 

「幸せになることは、そんなに簡単なことじゃない」

 

って思い込みたい。

 

これが「自己証明」です。

 

 

 

 

 

 

 

「親の教え」と、「親の呪い」の違いは、

 

「親が実践しているかどうか」

 

っていうだけで考えていたんやけど、そうすると、

 

「親が、自分の苦しみを抜け出す勇気を持てない言い訳として、自己証明をしている」

 

っていう状態も、一応、親は実践してるのよね。

 

 

 

実践はしてるけど、親は不幸を感じてる。

 

本人は気付いていないこともあるけど、不幸を感じてる。

 

自分が不幸を感じている考え方なのに、そのまま子どもに伝えちゃうと、子どもも同じように不幸になったり、苦しくなったりするんだから、それは「親の呪い」だよね。

 

 

 

だから、

 

「親が幸せでいられているかどうか」

 

っていうのも違いとしてある。

 

 

 

例えば、

 

「なんで、私ばっかり家事をしないといけないんだ」

 

って思って、子どもや旦那さんにキレて、家事をすることを強要するくらいなら、

 

「まずは、自分が家事をやめる」

 

っていう選択をした方がいいの。

 

 

 

「今日は、ご飯作りたくな―い」

 

「洗濯もしたくなーい」

 

「掃除もイヤだー」

 

って言う。

 

 

 

家族にちゃんと伝える。

 

「だから、子どもにご飯を作らせる」

 

「だから、旦那さんにご飯を作らせる」

 

っていうことじゃないの。

 

 

 

「私は、今日はご飯を作りたくない気分なのです」

 

っていう意思表明をするだけ。

 

 

 

その後、どうするのかは、その後に考えたらいい。

 

家族に伝えたんだから、家族みんなで考えたらいいよね。

 

ほんで、それぞれができることをやったらいい。

 

まずは、意思表明だけする。

 

 

 

そうすると、

 

「女は家事をしないといけない」

 

っていう呪いを子どもにかけなくていい。

 

 

 

「女は家事をしないといけない」

 

っていう呪いは、娘だけじゃなくて、息子にもかけられることあるからね。

 

 

 

「女は家事をしないといけない」

 

っていうことは、

 

「男は家事をしなくてもいい」

 

ってことでしょ?

 

 

 

息子が家事をしなくなり、家事がやろうとしない大人になっていく。

 

そういう男子のところに、

 

「女は家事をしないといけない」

 

と思ってる、女子がやってきて、付き合って、結婚して、

 

「女が家事をして、男は家事をしない」

 

っていう典型的な家庭が誕生する。

 

 

 

「女は家事をしないといけない」

 

っていうのを親が抜け出す勇気が無くて、

 

「子どもにも家事をさせようとする」

 

っていうのもよく話に聞きます。

 

 

 

これも「自己証明」です。

 

 

 

自分は、家事に楽しさを「やりたい」と感じてるわけじゃなくて、

 

辛さや苦しさを感じていて、我慢してやっている。

 

だから、

 

「子どもにも家事をやらせて、自分と同じような辛さ、苦しみを感じてほしい」

(=子どもにも私の辛さ、苦しみを背負ってもらいたい」

 

っていうことで、

 

「家事をやらせたい」

 

ってなる。

 

 

 

そうすると、

 

「そうだ!子どもに家事を手伝わせて、報酬を支払う『お手伝い制』を導入しよう!」

 

っていう発想にも繋がっていく。

 

 

 

お手伝い制は、

 

「お金で釣って、子どもに家事をやらせようとすることを合理的に見せる制度」

 

なんよね。

 

 

 

「お手伝い制を採用すると、子どもは質の低い仕事をしても、金銭を要求するようになる」

 

っていう話は、

 

 

でも書いた話やね。

 

 

 

報酬なんて設定せんでも、

 

「今日は、家事すんのしんどいから、ちょっと手伝ってほしい~」

 

って素直に言えば、親子関係や夫婦関係が良い関係になっていれば、普通に手伝ってくれるよ。

 

 

 

だってさ、普通に考えたら、

 

大好きな母親が苦しんでるのなんて嫌じゃん?

 

愛する妻が苦しんでるのなんて嫌じゃん?

 

自分の都合次第でもあるけど、手伝おうと思ったり、

 

「みんなで考えよう」

 

みたいになるよね。

 

 

 

良い関係が築けてなかったら、普通に拒否られると思う。

 

何なら、キレられたり、すごく嫌な気持ちになったりする。

 

 

 

関係性の話は、今日の話からズレるから、詳しくは書かん。

 

親子関係、夫婦関係が良い関係にできていないことから目を逸らすために、

 

「女は家事をしないといけない」

 

っていう呪いを持ち続けて、それを子どもにもかけようとする。

 

 

 

子どもが協力してくれて嬉しかったら、制度化しなくても、

 

「これ、手伝ってくれたお礼ね」

 

って言って、お金あげたらいい。

 

 

 

お金だけじゃなく、何か嬉しいことしてあげたり、好きな料理を作ってあげたり、ちょっとしたお菓子を買ってあげてもいいやんか。

 

「お手伝い制」にすると、

 

「何かをしてもらったら、お金を上げないといけない」

 

ってなる。

 

 

 

もちろん、何の話し合いもせずに、

 

「妻に、家事を全て任せちゃってる」

 

っていうのは、男子に対しても、

 

「いやいや、なんで当たり前のように家事を全部やらせてんの?」

 

って話でもある。

 

 

 

「苦しい思いをしているのに、なんでそれをほっとけるんだ?」

 

とも思う。

 

 

 

とはいえ、

 

「一部が全部、男が悪い(女が悪い)」

 

なんてことはないわけで、男子は男子で、

 

「妻の状態はどうかな?」

 

って気にしたり、家事もできることはやっていった方がいい。

 

 

 

女子は女子で、

 

「私が家事をやらないといけない」

 

っていう思い込みとちゃんと向き合って、

 

「今日は家事をやりたくありません!」

 

「家事を手伝ってほしい」

 

って意思表示できるようになり、

 

「家事は、家族みんなで考えて、やること」

 

って感じにしていきたい。

 

 

 

これは家事だけじゃなく、仕事にも当てはまります。

 

「男は仕事をするものだ」

 

っていうのも思い込みよね。

 

 

 

「女性が大黒柱になり、男性が専業主夫になる」

 

っていう家族の形があってもいいはず。

 

 

 

「仕事も、家事も、女性と男性で分担しながらやる」

 

っていう家族の形もいい。

 

 

 

「女は家事をするべき」

 

「男は仕事をするものだ」

 

っていう呪いを受けていることに気付いたら、呪いと向き合って、

 

「家事をしたくありません」

 

「仕事をしたくありません」

 

って言えるようになり、

 

「じゃあ、幸せな生活をするために、どうしていこうか?」

 

っていうことをみんなで話し合えるようになりたい。

 

 

 

そういう場合、大抵は、

 

「幸せとはなんぞや?」

 

っていうところから話が始まる。

 

 

 

なんでかっていうと、

 

「親の呪い」

 

を受けて育った人は、呪いのせいで、

 

「親の言う通りにすることこそが幸せになれる道」

 

って信じこんじゃってるから。

 

 

 

「親の呪い」

 

とは、

 

「親が苦しく、辛く、不幸な生き方をしているのに、その生き方と向き合う勇気が持てず、抜け出せない言い訳に使う考え方」

(=自己証明)

 

でもあるから、そのまま採用していると、ほぼ間違いなく親と同じように幸せを我慢し、不幸な生き方をするようになる。

 

 

 

親が、

 

「女は家事をするべき」

 

「男は仕事をするものだ」

 

って思っていると、子どももその「親の呪い」を採用するようになり、子どもが親になった時に、「親の呪い」を子どもに継承していく。

 

 

 

「親の呪い」は、子々孫々に継承されていくんです。

 

もちろん、「親の教え」も、継承されていきます。

 

 

 

「親の呪い」がかかった状態で、子どもに教えることは、全て「親の呪い」になります。

 

つまり、

 

それ以外の選択肢が許されないし、

 

その選択をすれば、不幸になる、

 

っていうことです。

 

 

 

「親の教え」を子どもに伝えるためには、「親の呪い」を解除して、その上で、

 

「自分が人生で大切にしてきたこと」

 

「自分が幸せになった時に大切にしてきた考え方」

 

を伝えていく。

 

 

 

「親の呪い」がかかっていると、

 

「親の言う通りにすることこそが幸せ」

 

って思っちゃってて、

 

「この辛さ、苦しみを乗り越えて、我慢を乗り越えた先に、幸せがあるはずだ」

 

って思っちゃってる。

 

 

 

その前に死んだり、乗り越えた先に「さらなる絶望」が待ってるんやけどね(笑)

 

「親の言う通りにすることこそが幸せ」

 

って、たしかにそうなのかもしれないけど、その幸せが無限遠に置かれているから、そこまで生きていられない。

 

「親の呪い」によって幸せになるには、人生100年じゃ足りない。

 

 

 

だから、子どもにも継承されていって、

 

「幸せになるバトンを託した!」

 

ってなる。

 

 

 

「いやいや、自分の世代で幸せになろうぜ」

 

って思うやんか(笑)

 

 

 

「親の呪い」に気付いて、解いて、まずは親が幸せになる。

 

ほんで、幸せな人生を過ごすことができるようになったら、

 

「その時、親は何を考え、何をしていた?」

 

ってことを振り返る。

 

 

 

これが「親の教え」です。

 

「親の教え」を伝えられた子どもは、

 

どうやったら幸せになるのか?

 

何をしたら人間関係が良くなるのか/悪くなるのか?

 

上手くいく考え方、やり方は何か?

 

仕事とは何で、どんなことをしていったらいいのか?

 

自分という存在との付き合い方

 

なんかを教えられる。

 

 

 

時間を作って、真面目に伝えることもいいけど、別に改まって時間を作る必要もない。

 

改まった時間を作ってもいいけど、圧が強くなって、強制力が生まれる可能性もありそう。

 

 

 

「親の教え」は日々の他愛のない会話の中にもいっぱい散りばめられてるし、

 

「親の生き方」

 

「親の立ち振る舞い」

 

「親の言葉や行動」

 

でガッツリ表現されてるから、そこから子どもが勝手に学んでいきます。

 

子どもとおしゃべりする時に、教えたりとかもいいよね。

 

子どもとのおしゃべりの中で話題に出すと、子ども側の考えも話してくれたりしたら、議論になって考え方が洗練されていくからいいね。

 

 

 

大事なことは、

 

「何を伝えるか?」

 

じゃなくて、

 

「親がどういう生き方をしているか?」

 

です。

 

 

 

「親の呪い」がかかったまま、辛く、苦しく、幸せややりたいことを我慢する生き方をしているのか。

 

「親の呪い」がかかってなかったり、解いたりして、幸せだったり、やりたいことをしてたり、我慢をしない生き方をしているのか。

 

 

 

そのどちらかによって、親が子どもに伝えるのが、

 

「親の教え」

(=子どもが幸せに生き、自分を最高だと思える考え方)

 

なのか、

 

「親の呪い」

(=子どもが幸せを我慢し、不幸を感じ、自分には価値が無いと思える生き方)

 

なのかが変わります。

 

 

 

生き方だから、口先だけで綺麗なことを言っても、子どもは見抜くし、ちゃんと呪われます(笑)

 

口先だけじゃなく、ちゃんと感情・思考という内面から向き合い、行動や立ち振る舞いも変えていく。

 

 

 

そして、

 

「親自身が幸せな生き方」

 

ができるようになって初めて、

 

「親の教え」

 

が伝えられるようになる。

 

 

 

 

 

 

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