子どもがゲーム依存症になるのは、親からの無条件の承認の代用 | 家庭を子どものBASEに 佐伯和也公式ブログ

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子どもが思う存分遊ぶ(ゲーム含む)ことで、知的好奇心が育ち、それが勉強にも繋がっていく

僕のブログやメルマガを読んでくれている方の中には、

 

「佐伯はゲーム容認派だ」

 

って思っているかもしれませんが、ちょっと違います。

 

 

 

正確には、

 

「佐伯は、ゲームどっちでもいい派だ」

 

です。

 

 

 

ゲーム容認派っぽいことばっかり書いているのは、ネット検索すればゲーム否定派の人が多く記事をあげているから、それとバランスを取るためです(笑)

 

僕個人としては、どっちでもいいんです。

 

 

 

ゲームは所詮道具なので、使い方次第でどうとでもなります。

 

それに、ゲームを中心に議論しすぎると、あたかも子どもの人生の中心がゲームなんじゃないか、って思えてきます。

 

んなこたぁない!

 

 

 

というわけで、子どもがゲームしてても、していなくても、どっちゃでもいいです。

 

ゲームをしているメリットもあれば、ゲームをしていないデメリットもあるんです。

 

 

 

僕の本心としては、

 

「ゲームなんていう些細なことに振り回されずに、子どもの姿をしっかりと見ようぜ!」

 

って思っています。

 

 

 

ゲームやっていても、やっていなくても、子どもは子どもです。

 

ゲームやっている子どもは可愛くなくて、ゲームやっていない子どもは可愛い、って何だかおかしな話でしょ。

 

 

 

もしも、そう感じるんだとしたら、もしかしたら、ゲームに毒されているのは、子どもじゃなくて、親の方かもしれません。

 

過去にこんな記事も書いているので、良かったら読んでみてください。

 

 

 

「残虐なゲームをやり過ぎて、うちの子も残虐になるんじゃあ・・・」と不安を抱く親へ

 

 

 

 

 

 

ゲームってね、「子どもがするもの」「子どもが楽しむもの」って思っている人が多いかもしれません。

 

その時、すっぽりと抜け落ちているのが、

 

「親である自分も、ゲームを見ている」

 

っていうこと。

 

 

 

もうちょっと正確に言えば、

 

「親である自分も、ゲームを意識している」

 

っていうこと。

 

 

 

だから、僕が一つ仮説で持っているのが、

 

「ゲーム依存症の子は、ゲーム心配性の親の元で育つ」

 

っていうもの。

 

 

 

ゲームに拭い去れない心配を持ち続けている時、ゲームをしている子どもとの関わりはネガティブなものになりやすいです。

 

そしたら、子どもは大好きなお母さんを傷つけてしまった、心配をかけてしまった・・・っていう落ち込みをゲームで解消しようとします。

 

その様子を見ていた親がまた心配するのから、悪循環が出来上がる。

 

 

 

ゲームは、子どもの心の余裕があれば、自分で離れられたり、ちょっとした一声で離れてくれます。

 

しかし、子どもの心の余裕がなければ、ゲームから離れると途端に不安や、心配が襲ってくるから、人から言われても、自分からもなかなか離れられない。

 

 

 

親が『ゲーム=悪』という思い込みをなかなか手放せない。

 

そのことと、子どもが執拗にゲームにのめり込み続けることは、強く関連しているんじゃないか、っていう仮説を持っています。

 

 

 

だから、「子どもがずっとゲームをし続ける」っていうことで、親が何とかできる課題は、次の2つだと考えています。

 

1.ゲームに対する思い込みを変えること

 

2.子どもとのコミュニケーションの取り方を変えること

 

です。

 

 

 

この2つを何とかすると、子どもはゲームはするけれども、病的な要素は抜けていきます。

 

言い換えれば、この2つを何とかせずに、子どものゲームを何とかしようとし続けている限り、子どものゲームはより病的になっていくこともイメージできます。

 

 

 

理由はとってもシンプルで、「親に『ゲームをする自分』を認めてもらえていないから」です。

 

親が『ゲームをする自分』を認めることができるようになるまで、子どもは"娯楽の範囲を超えて"ゲームをやり続ける、っていう感じ。

 

 

 

子どもを信頼するための練習期間ですね。

 

子育てのトレーニング。

 

 

 

信頼とは、無条件の承認です。

 

「ゲームをしていない子どもは認められて、ゲームをしている子どもは認められない」

 

っていうのは、信頼ではありません。

 

子どもを信頼していない。

 

 

 

でも、信用はしているかもしれません。

 

信用とは、条件付きの承認です。

 

まさに、

 

「ゲームをしていない子どもは認められて、ゲームをしている子どもは認められない」

 

です。

 

 

 

承認するために「ゲームをしていない」っていう条件が付いていますよね。

 

ゲームをしていない場合に限り、承認しているので、承認していないわけじゃない。

 

 

 

何が問題なのかって、

 

「子どもは、親からの信用は求めていない」

 

っていうことなんです。

 

子どもが求めているのは、親からの『信頼』の方です。

 

 

 

子どもからしたら、いらんものを親から提供されていることになりますね。

 

勘違いしてほしくないのは、子どもが求めているのは、『親から』の信頼です。

 

信頼がほしいんじゃなくて、『親から』の信頼です。

 

 

 

当たり前のことを書きますが、『親からの信頼』を子どもに与えられるのは、親しかいません。

 

親以外の人間には『親からの信頼』は与えられません。

 

 

 

だから、子どもは親に執拗に絡んできたり、親が迷惑を感じるようなことをしてくることがあるんです。

 

それらも全て、子どもは親からの信頼を欲しいがため。

 

 

 

でも、子どもがやっていることは、実は、親からの信頼じゃなくて、親からの信用を勝ち取ろうとしている行動なんです。

 

つまり、子どもは、自分が求めているものに対して、自分がやっていることを間違えているんです。

 

 

 

普通にしていると信頼が得られなかったから、何か特殊なことをやると、親が承認してくれんじゃないか、って勘違いして、何か特殊なことを始めるんです。

 

褒められようとがんばってみたり、逆に、悪いことをしたら承認してくれるんじゃないかとか。

 

「これはもしかして、勝負なのか!?」と思って、親に直接対決を申し込んでみたり。

 

 

 

それでもダメなら、「こんなにがんばってるんだから認めろよ!」って言わんばかりに、親が本気で嫌がることで復讐したり、無気力になって、自分の存在を危うくさせようとします。

 

 

 

子どもは、本当は『親からの信頼』が欲しいはずなのに、結果的に、『親からの信用』を得ようとしてしまっている。

 

そのことに子どもは気付いていないわけですが、親も気付かなかったら、信用を与えてしまうことがあります。

 

 

 

これがさっき書いた「ゲームをしていない子どもを褒める」みたいなことですね。

 

条件付きで、子どもを承認しているから、信用なんです。

 

 

 

信頼じゃなくて、信用だと何がまずいのか。

 

子どもの中に『恐怖』が常に付きまとうようになるんです。

 

 

 

信用には、条件が伴うということは、逆を言えば、その条件が満たされなくなると、承認が得られない、っていうこと。

 

上手くいっている間はいいけれど、上手くいかなくなることを想像すると、とっても怖い。

 

 

 

イメージで言えば、2棟の高層ビルの間に渡されたロープの上を歩いていて、風が吹かないだろうか、って怯えている感じ。

 

子どもは親からの承認が得られなくなると、この世の終わりと思っていたりするから、ほんとにこんな心境かもしれません。

 

それくらい子どもにとって、親の承認っていうのは大事なことなんです。

 

 

 

 

 

 

そう考えていくと、子どもが見ているのは、

 

「自分がゲームをしている時の親の態度や、関わり方」

 

だったりします。

 

 

 

意図的にジャッジしているわけではないんですが、ゲームをしている愛されないんじゃないか、って思うと、子どもは希望にすがろうとします。

 

「いや、そんなはずはない!もう一度、ゲームをしてみよう」

 

みたいな感じで。

 

 

 

それが親から見たら、ゲーム依存症に見えるんです。

 

でも、その実態は、自分を無条件で信頼してほしい、っていうアピールだったりもします。

 

この論理は、スマホも、動画も、テレビも、どれにも共通する要素はあると思っています。

 

 

 

 

 

僕らは、本当は普通にしていても、愛されていい存在です。

 

産まれてきたばかりの時は、きっとそう信じていたはず。

 

だから、親が話し掛けているのに、おもちゃに関心を持って、全然こっちの言うことを聞いてくれないこともあった。

 

親に関心を向けていなくても、きっと親は自分を見ていてくれるはず、って思っていたから。

 

 

 

でも、大きくなるにつれて、視野が広がってくると、ちょっと違うことに気付き始める。

 

親が自分に関心を向けてくれる時と、そうでない時があることに。

 

 

 

子どもの中で不安が広がる。

 

今までとやり方を変えて、親の気を引こうとしてみる。

 

そのやり方がたまたま親の価値観に合うことなら承認されるけれど、合わないことなら承認はされないけれど、注目はされる。

 

 

 

本当は無条件で愛されたいんだけど、子どもの方も、どうやったら無条件で愛されるのかが分からなくって、途方に暮れる。

 

この時点で、子どもも実は条件付きの愛情を求めようとしている。

 

 

 

「こんなにがんばったよ!」

 

ってやって、がんばったことを認めてほしいんじゃなくて、自分そのものを認めてほしい。

 

でも、自分そのものは認められないことを学習してしまっているから、もう自分にはがんばるしかない、って思っている。

 

 

 

そう思っていた矢先に、知ったゲームという存在。

 

誕生日だったか、何だったかでねだったら買ってもらえた。

 

 

 

『親が』買ってくれたゲーム。

 

 

 

子どもからしたら、新しいやり方を見つけた!と思ったんです。

 

親の承認を得られるんじゃないか、親と交流ができるんじゃないか、っていう期待の新アイテム。

 

 

 

でも、実際、やり始めてみると、以前よりも、親は承認してくれることが少なったような気がする。

 

『親が』買ってくれたゲームで、なぜか、認めてもらえない。

 

 

 

どうしたらいいんだろう。

 

そう考えて、悩んでいる間も、ゲームは相変わらず楽しい。

 

その楽しさに身を委ねている間だけ、子どもは親から承認を得られていないことを忘れられる。

 

 

 

そうするうちに、子どもは親からの信頼、すなわち、無条件の承認を得る代わりに、ゲームからの無条件の承認を得るようになる。

 

子どもは、気付くんです。

 

 

 

『親からの承認は条件が必要だけど、ゲームからの承認は条件がいらないこと』に。

 

 

 

本当は、『親から』の無条件の承認が欲しかったけれど、この際、ゲームからの『無条件の承認』でいいや、ってなる。

 

子どもの妥協、ですね。

 

この状態を「勇気をくじかれている」って言います。

 

 

 

妥協で手に入れられたものでも、そこそこ気持ちいいから、ずっとゲームの世界に居続けてしまう。

 

その様子を周囲の人間が見れば、ずーーーーっとゲームやっているんだから、ゲーム依存症に見えるんです。

 

 

 

 

 

 

 

もうお分かりだと思いますが、子どもがゲームから抜け出すために、親にできることはたった一つです。

 

 

 

『ゲームをしている子どもも承認すること』

 

 

 

です。

 

すなわち、子どもがゲームをしている・していないで態度を変えず、同じように接する、っていうことです。

 

それが承認です。

 

褒めることじゃありません。

 

 

 

今の生活の中で「子どもが可愛いな」って思った時にしているコミュニケーションの取り方がありますよね。

 

それと同じようなコミュニケーションをゲームをしている子どもや、ゲームの話をしている子どもと、取るんです。

 

 

 

それを『遊びの解放』って言っているんです。

 

 

 

ゲームしている・していないで関わり方を変えないことを指しているので、

 

「ゲームを好きなようにやらせています」

 

だけでは不十分なことがあります。

 

 

 

あくまでも焦点を当てるべきは、ゲームを開放しているのかどうかではなく、親のコミュニケーションの取り方です。

 

ゲームをしている・していないで、子どもへの態度が変わっていないかどうか、です。

 

 

 

子どもへの態度を変える、っていうのは、

 

ゲームをしている ⇒ イライラ

 

ゲームをしていない ⇒ 落ち着いている

 

とか、

 

ゲームをしている ⇒ 否定的

 

ゲームをしていない ⇒ 肯定的

 

とか、

 

ゲームをしている ⇒ 指示、命令型コミュニケーション

 

ゲームをしていない ⇒ 対話型コミュニケーション

 

とか、っていうことです。

 

 

 

 

 

また、『遊びの解放』を実践しても、親が無条件の承認をしているとしても、子どもが抜け切れないことがあります。

 

それは、根本的なことは良くなったけれど、症状だけ残っている状態です。

 

 

 

つまり、親からの勇気くじきは無くなったんだけど、子どもは勇気をくじかれたまんま、っていうことです。

 

勇気くじきをやめただけでは、もしかしたら、子どもは「どうせ自分なんて」って思い続けたまんまなことがあります。

 

 

 

だから、そこからは勇気付けのコミュニケーションが必要になります。

 

 

 

 

勇気付け・・・

 

さすがにちょっと長くなってきたので、ここらで一旦記事を終わります。

 

ここまでで約5000文字・・・お疲れ様でした。

 

 

 

ここまで書いてきたことをまとめると、

 

・子どもがゲームと上手く付き合えるようになるには、ゲームをしている、していないで親の態度を変えないこと

 

・信頼⇒無条件の承認、信用⇒条件付きの承認

 

・子どもがゲーム依存症に見えるのは、無条件の承認を親ではなくゲームに求めるようになった説

 

・『遊びの解放』ができても、子どもの勇気がくじかれたまんまなことがあるから、その時は勇気付け

 

っていう感じでしょうか。

 

いくつか抜けているかもしれませんが、言いたいことは書けています。

 

 

 

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