子どものゲームを制限するのは、無意味 | 家庭を子どものBASEに 佐伯和也公式ブログ

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子どもが思う存分遊ぶ(ゲーム含む)ことで、知的好奇心が育ち、それが勉強にも繋がっていく

ゲームそのものは、学校の成績や、学力には影響を与えません。

 

 

 

ゲームには、

 

・論理的思考力

 

・状況判断力

 

・推理力

 

・クリティカルシンキング

 

・空間把握能力

 

・暗算力

 

・創造的思考力

 

など、さまざまな思考力を鍛える要素があります。

 

 

 

じゃあ、それがそのまま学校の成績や学力に反映されるか、っていうと、それは違います。

 

ゲームをして鍛えられた思考力は、子どもが勉強に対して、主体的な意欲を見せた時にのみ、作用します。

 

つまり、「子どもが自分から勉強を始める」時ですね。

 

言い換えれば、子どもが勉強への意欲が低い時は、子どもの能力は上手く発揮されにくい、って言えます。

 

 

 

何が言いたいか、っていうと、ゲームと、勉強は基本的には分離して考える必要があるんじゃないか、っていうことです。

 

基本的には、って書いたのは、ゲームと勉強の関連性は、時間だけでのみ、って考えているから、です。

 

ゲームをしていると、勉強する時間は減りますよね。

 

影響があるとしたら、それだけ。

 

 

 

そして、

 

「学力は、勉強時間と相関はしていても、因果関係は無い」

 

です。

 

つまり、たくさん勉強したからといって、必ず学力が高まるとは言えない、っていうこと。

 

 

 

そう考えていくと、何とかして子どもに勉強をさせようとするのは、非効率な活動だ、って言えます。

 

すなわち、親ががんばった割には、子どもの学力に反映されるとは言えなくて、骨折り損になることがある、ってことね。

 

 

 

子どもに何とかして勉強をさせることは、イライラするし、時間も、労力もかかる割に、子どもは全然勉強しない。

 

それがゲームを制限したり、ゲームを取り上げたりすることも、そんなに学力には繋がらない。

 

 

 

勉強をさせようとしたり、ゲームを制限することで、子どもは恐怖や落胆の中、勉強をすることはあるでしょうけれど、それは間違いなく意欲的じゃない。

 

「よーし!ゲームの約束の1時間が終わったから、勉強するぞー!」

 

とはならないんじゃないかな。

 

「あーぁ、もうちょっとゲームしたかったけど、約束だから、やめるかー」

 

みたいな感じになりやすいんじゃないでしょうか。

 

 

 

そして、とっても低いモチベーションのまま、能力も十分に発揮されない状態のまま、勉強が始まります。

 

そうすると、冒頭に書いたような、ゲームで培われた能力は、学力にはあまり反映されない、っていう状況が出来上がります。

 

 

 

 

 

このことに含まれている一番の勘違いは、

 

「子どもの好きなものを制限すれば、勉強をするようになる」

 

っていうのはあるかもしれないけれど、

 

「子どもの好きなものを制限すれば、学力が上がる」

 

っていうのには繋がらない、っていうこと。

 

 

 

つまり、行動そのものを親が思う通りにコントロールできたとしても、その行動は何も生まない確率が高い、っていうこと。

 

だから、結果的に、学力や、子どもの幸福感に繋がりづらいので、ゲームを制限することは、「良かった、うちの子、勉強している」っていう親の安心感を作るくらいの意味しか持たないことになる。

 

 

 

ゲームを好きなだけやると、勉強時間が無くなる。

 

かと言って、ゲームを制限して、勉強時間を確保したとしても、勉強をしたとしても、学力にはちょっとしか影響しない。

 

そう考えると、ゲームを制限することには、親にとっても、子どもにとっても、あんまり旨味の少ない関わり方なんです。

 

だから、ゲームの制限は、やるだけ無駄なことが多い。

 

 

 

 

 

ゲームで培った思考力が、勉強に活かされるのは、子どもが主体的に勉強をする時に限られ、無理やりやらされた勉強では、ゲームで培った思考力は活かされにくい、っていうのが僕の考えです。

 

 

 

 

スタンフォード大学の心理学者であるキャロル・S・ドゥエック博士の考え方では、子どものマインドセットには、「やればできる!」って思う『Growthマインドセット』と、「やってもムダ」って思う『Fixedマインドセット』の2つがあります。

 

無理やり勉強をさせられている時は、「やってもどうせムダ」って思いやすいから、たとえ子どもに能力があっても、それは発揮されにくい。

 

主体的かつ能動的に勉強をしている時は、「やればできる!」って思いやすいから、子どもに能力があれば、それは発揮されやすい。

 

 

 

さらに、継続的な成長も視野に入れれば、無理やり勉強をさせると『Fixedマインドセット』が強化されやすく、主体的かつ能動的に勉強をしている時は、『Growthマインドセット』が強化されやすい、っていうのも容易に想像できると思います。

 

言い換えれば、強制的な勉強は、親や先生によって、将来に向かって子どもの可能性を狭められていき、主体的な勉強は、自分の力で可能性を切り拓いていきやすい、とも言える。

 

 

 

そういう意味で、子どものゲームや、勉強に対する親や先生の関わりは、子どもを行く末をかなり大きく左右するわけです。

 

子どもにどうなってほしいのかは、それぞれの家庭で持っていたらいいと思うし、僕の考えを信じるかどうかも自由です。

 

ここまで書いたことは、あくまでも一つの考え方に過ぎません。

 

 

 

 

 

 

 

よく「勉強が将来の何の役に立つの?」っていう問い掛けがあります。

 

この問い掛けに対する僕の答えは、

 

「役立てようと思えば、何でも役立てられるし、役立てようと思わなければ無用の長物になる」

 

です。

 

 

 

つまり、学んだ内容を活かすも殺すも、自分次第だ、っていうこと。

 

そして、親や先生が無理やり勉強をさせる関わりをしていれば、子どもは身に付けてみたものを殺す方向に行動し、子どもの主体性を尊重すれば、身に付けてきたものを活かす方向に行動しがちである、っていうことね。

 

 

 

だからこそ、子どもがゲームに主体性を発揮しているなら、そこを奨励しておけば、子どもは自分の能力を、自分で勝手に高めていってくれます。

 

でも、子どものゲームを制限していくと、いや、もう少し正確に言えば、子どものやりたいことを制限していくと、子どもは自分の能力も、自分で勝手に制限していくんです。

 

 

 

そこから、「好きに遊んでどうぞ!」ってやっても、自分の能力を自分で制限することを覚えているから、それだけでは、子どもの能力は解放されません。

 

遊びの解放は、『解放』であって、『開放』ではないんです。

 

違い、分かりますか。

 

 

 

遊びの扉を開けただけでは、子どもはそこを通ろうとしないんです。

 

今まで制限されてきていると、自分で能力を発揮しようと思わない、っていうことね。

 

これは『開放』です。

 

 

 

だから、遊びの扉を開けた上で、「さぁ、一緒に遊ぼう!!」ってやりたいんです。

 

子どもの遊びのスイッチも入れてあげたいんです。

 

ここまでやって『解放』です。

 

 

 

そこが僕が何度もメルマガやブログで言っている『コミュニケーション』の部分です。

 

いわゆる『放任』は、遊びの扉を開けただけ。

 

『遊びの解放』は、遊びの扉を開けた上で、積極的に子どもに介入していきます。

 

 

 

もちろん、ここで言う介入とは、肯定的な介入です。

 

肯定的な介入は、簡単なのは、「さぁ、一緒に遊ぼう!!」ってやるか、子どもが遊んだ話を聴くことです。

 

 

 

 

 

 

 

まとめると、親の関わりによって、子どもの能力が発揮されるかどうかは、大きく左右されます。

 

 

 

子どもの遊びに否定的 = 勉強に対して強制的 ⇒ 子どもの能力は閉鎖的

 

子どもの遊びに消極的 = 放任 ⇒ 子どもの能力は、本人の主体性による

 

子どもの遊びに肯定的 ⇒ 遊びの解放 ⇒ 子どもの能力が発揮されやすい

 

 

 

親のベクトルに合わすのか。

 

親のベクトルを0にするのか。

 

親のベクトルを子どもに合わせるのか。

 

 

 

そのどれによるかで、子どもの能力の発揮され具合は、大きく変わる。

 

それにより、子どもの人生の質も大きく変わります。

 

学力や成績から書き始めたけれど、親の関わり方の影響は、その限りじゃない、っていうことね。

 

 

 

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