BASEメルマガで、僕の実体験に基づく、
「怒りの正体」
「怒りとイライラの違い」
を書いたので、ブログではまた別の話をしたいと思います。
「子どもには厳しく叱った方がいいんだ!」
なんて昭和の考え方で、もう今ではすっかりと否定されている関わり方です。
なんでかっていうと、
「子どもに恐怖心を感じさせてしまうから」
です。
恐怖で支配すると、たしかに、子どもをコントロールしやすいです。
ただ、恐怖での支配は、決定的な問題点があります。
それは、
「子どもの自己肯定感や、自己効力感を下げてしまう」
「子どもが親に言われないとやらなくなる(=指示待ち人間になる)」
「子どもが何をするにしても、親の許可を必要とするようになる」
「子どもが失敗を怖れ、間違いを怖れるから、挑戦や学習をしなくなる」
「子どもが恐怖の反動から、親が食い止めることができないほどの反発や復讐をすることがある」
などです。
そして、僕が思う、最も大きな問題が、
「子どもに、親の愛が伝わらないこと」
です。
昭和のスポ根ドラマで、厳しく指導するコーチに対して、
「コーチは私のためを思って、厳しくしてくれているんだ!」
とか、
「この厳しさは期待されているからこそ!」
って思うシーンがありますが、そんなの子ども、気付かないからね?
ドラマの中の世界よ。
むしろ、
「大人の感情表現、へたくそか!!」
って話よ。
子育てや教育は、何も急ぐことはないんだから、焦らずにじっくりと時間をかけてやっていったらいいと思うんです。
「少年老い易く学成り難し」
なんて言うけど、学問なんて大人になってからも続けるんだから、子どものうちから焦ってがんばらせる必要なんてないです。
むしろ、小学生とか、まだ小さい時に知識を思いっ切り詰め込まなくても、そんなの高校生くらいになってからやったら、すぐに習得できる。
子どもがまだ小さい時、思春期よりも前に必要なのは、
「厳しさ」
よりも、
「温かさ」
「優しさ」
「(分かりやすい)愛情」
です。
親のひねくれて、ねじ曲がってしまった、分かりづらい愛情に気付けるのは、子どもが大きくなって、色んなことが分かるようになってから。
その頃には、子どもの心が出来上がってしまうから、
「自分はどうせ愛されていない」
「自分は何をやってもダメなんだ」
「自分のことが大嫌い」
「自分のことなんてどうでもいい」
「自分は生きていても何の役にも立たない」
なんて思い込みながら、生きていくことになる。
こういう思い込みがあると、子どもは
自分を見失いやすく、
自信が無く、
自分に何かができると思っていないから、
学ぼうとしないし、
挑戦しようとしないし、
どっかで拾ってきた「正しさ」に逃げるようになる。
他人をバカにして、見下して、自分自身を必死に守ろうとする。
そして、周りに人がいるのに、ずっと孤独を感じ続けるようになる。
昭和時代は、どうしてそういう厳しい態度がまかり通っていたかと言えば、
「子どもに寄り添える大人がいたから」
です。
親が厳しくしても、おじいちゃんおばあちゃんとか、近所のおっちゃんとか、子どもに寄り添える大人がいた。
でも、今は、時代の移り変わりが速く、大人が子どもに寄り添いづらくなってきてる。
大人が、子どものやっていることが理解しづらくなってきてる。
その要因は、
「デジタルの発達」
にある。
子どもが当たり前のようにデジタル機器に興味を示すようになったから、大人側の理解がついていかない。
だから、子どもに寄り添い切れないし、僕ら人間は未知のものを否定したがるので、子どもを心配し、否定するようになっていく。
昭和だったら、大人も、子どもも、テレビを見るから、
「テレビを見ている子ども」
を理解できた。
でも、令和になった今、大人はテレビ、子どもはYoutubeだったりするから、
「Youtubeを見ている子ども」
を大人が理解できなくなってきた。
子どもに厳しく接してしまうと、その子どもを救う人が他にいなくなってしまうのだ。
だってさ、子どもがYoutubeばっかり見てて、
「どんな動画を見ているの?」
「なんだか楽しそうな動画を見ているね!どんなのか教えて」
とかって寄り添える大人よりも、
「ずっとスマホにかじりついて心配」
「動画ばっかり見てるけど、大丈夫なのかしら」
っていう大人の方が多いやん?たぶん。
スマホでやっていることは、僕らが昔々やってたことですよ。
テレビ(動画)
ゲーム
新聞
読書
世間話
文通
電話
などなど。
しかも、それで学校に行かなくなってきたら、
「学校にも行かないでゲームばっかり!!」
ってなるやんか。
子どもが学校に行かなくなったことに、子どもなりにも理由があるのに、その理由を知ろうともせず、その裏にある感情に寄り添おうともせずに、
「何とかして学校に行かせなきゃ!」
「学校に行かないと、将来ろくでもない大人になるんだよ!」
「どうして、学校に行こうとしないの!?」
とかやっちゃう。
親が子どもに厳しくするばっかりだと、もう子どもをフォローできる大人がおらんのだ。
逆に言えば、子どもをフォローできる大人が多ければ多いほど、子どもは元気を取り戻し、活動量が増えていく。
BASEに参加してくれてた方の子どもで、学校に行っていなかった子どもがいたのね。
その子がある時、ふと、
「学校に行ってみようかな」
って言うわけ。
もちろん、親は子どもを学校に行かせよう、なんてしてない。
その子がなんでそんなことを言い始めたかと言えば、実は、そう言い出す少し前に、
「担任の先生が、どうぶつ森をかなりやり込んでいる人だった」
っていうことが分かったのだ。
その子は、どうぶつの森が好きでたくさん遊んでた。
担任の先生は、それ以上にやり込んでいて、かなり詳しくって、どうぶつの森の話で盛り上がったのね。
その担任の先生が、子どもに寄り添えたわけ。
そしたら、その子が、
「学校に行ってみようかな」
って言い出して、自分のペースで通い始めた。
担任の先生が寄り添えたから。
そして、その子が学校のことを
「安全基地だ」
って思えたから。
だから、学校に行く。
「子どもに怒りを使って、厳しくしつける」
っていうのは、もう昭和以前の発想なのよ。
心理学の本だと、
「歴史書?」
っていうくらい古い本を探さないと載ってないよ、そんな話。
とっくの昔に否定されているし、ネガティブな結果の方が多いことが分かってる。
それでも、子どもに厳しくしたり、怒ったりしちゃうのは、
「子どものため」
ではなくて、
「親が怒りたいから怒る」
っていうこと。
あと、大人の勉強不足ね!笑
「子どものため」
を思うんなら、どっかで怒るのをやめないといけない。
そして、子どもに厳しくするのをやめる。
「厳しくした方が育つ子どももいるでしょ!」
うん、それはそうなのよ。
それも間違ってない。
ただ、それは、
「特定の子どもだけ」
なのよ。
「子どもには、須らくみんな厳しくした方がいい」
ってわけじゃない。
「すべからく」って、「須らく」って書くんだ。
へー。
#漢字変換を使った漢字勉強法
厳しくした方がよく育つ子どもは、
「厳しくしてほしいと思っている子ども」
だけです。
求めているんなら、してあげた方がいい。
求められていないんなら、しない方がいい。
単純な話です。
これが分かるようになってくると、子どもの成長速度が劇的に変わってくるよ。