前回の記事で縁起瞑想について書きました。

私自身が縁起瞑想をやるときになかなか腰が上がらずやる気にならなかったと。

そこで目の前のことを「ない」と思って見てみる、という方法で出来るようになったとかきました。


しかし、「ない」と思って見るとはどういうことでしょうか?


お釈迦さんは、「すべては心が生み出したものだ。」と言いました。

それは「この世はすべて幻想だ」ということです。


例えば、私たちが目の前に見ている物は、確実にあって、その確実にあるものを目で見ていると思っていますよね。


でも、目で見たものは一旦、電気信号に置き換わって、その電気信号に乗っけられた情報は脳に届けられ、脳で認識しています。

電気信号に置き換わっているという時点で、なんだか怪しいですよね。

しかも、私たちが認識しているのは目の前の物理的な世界ではなく、情報を認識していると言うことです。

すごいですね、私たちが見ているものは物理的なものではなく情報なんですよ。


これは、目で見たものに限った話ではありません。


触覚や聴覚、いわゆる五感と言われるものも同じです。


例えば、犬や猫のような動物を撫でているとき、手のひらには確かにその動物の毛を撫でている感覚は確かにあるでしょう。

動物の温もりも感じることができると思います。

そして、その確かにあるというその感覚も、手の神経から電気信号に置き換わった情報が、脳で触ったという感触や温もりを再現して認識しているのです。


いま、これを読んでいるとき触れているスマホやPCのマウスを持っている手の感触は単なる情報で幻想なんですよ。

確かに触った!という臨場感があるおかげで現実だと思っていますが、その臨場感も脳が生み出しているんです。

目の前の何かに触れてながら「そうか、触れてる感触があるから「確かにある!」と思えるけど、この触れている感覚も情報にすぎないのかぁ」

と思うと「この世は幻想」ということが少し腑に落ちるのではないでしょうか。


すべて「情報」と言う風にみても良いでしょう。


目の前で見ている世界が幻想であり情報なのであれば、私たちの心はもちろん幻想であり情報であると言うことになるかと思います。


わたしたちが何に苦しんでいるのかと言えば、自分の心に振り回されているから苦しいと言うことができると思います。


つまり、ありもしない幻想によって苦しんでいると言うことです。


つづく。





via しののめ気功施療院
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